狐鬼 第一章
25
屋内水泳場迄、来て異変に気付く
硝子張りの両開きの扉の向こう、真っ暗な空間に目を見張る
「あれ?」
真逆、入れ違いに?
とは思ったが、一本道の渡り廊下だ
ちどり所か誰とも擦れ違う事はなかった
駄目元で手を掛ける
施錠されていない、両開きの扉は鈍い音を立てて開いた
休憩場を兼ねた広間
何処にあるのか、見当も付かない
電灯スイッチを手探りするよりもさっさと、ちどりを見付けよう
右に続く通路は屋内水泳場入口
左に続く通路は更衣室、他諸諸の設備室だ
正面の通路は選択肢にない
取り敢えず更衣室へと向かう通路を歩き始めるが
正面の通路、階上からの水音に気が付いて立ち止まる
気のせい?
否(いや)、耳を澄ます
間歇的ではあるが確かに水音が響いてくる
其れでも正面の通路は選択肢にない
今度は右の屋内水泳場入口に続く通路を進んでいく
競技用プールの、窓外の陽が射し込むのか
薄暗い
解放された扉の先、水音が漏れ聞こえてくる
矢張り誰かしら、いるんだ
「、ちどり?」
上履きのまま、プールサイドに足を踏み入れる
他部員、顧問に目撃されたら怒られそうだが致し方ない
止む事無く、水音が響く競技用プール
其の姿を確認出来ない迄も
「ちどりが泳いでいる」何の疑いもなく、そう思った
「ち~どり…」
濡れた足元に注意深く、小走りで進む
そうしてスタート台に腰掛ける、ちどりの姿が視界を横切った
「え?」
思わず息を呑む
制服姿の、彼女が足で水面を蹴り上げていた
其の水音だったのか
何だ、泳いでいた訳ではなかったのか
其れにしては遠ざかる水音を聞いたような気がした
「ちどり、陽が暮れるよ」
実際、もう暮れている
硝子張りの窓外
白く、煌煌と浮かぶ月が先程より鮮やかだ
そうだ
思えば、此の状況が可笑しいのは一目瞭然だ
其れでも微かな鼻歌を口遊み、スタート台に座り込む
彼女に声を掛ける以外、自分には出来ない
手を伸ばし、其の肩に触れようと覗いた
彼女の足先が水面に触れていない事に身の毛が弥立つ
其れも其の筈
長水路の競技用プール
スタート台の高さは水面上、五十~七十五糎だ
触れる筈がない
猶猶、足を蹴り上げる彼女
猶猶、響き渡る間歇的な水音は何処からともなく
瞬間、目の前の光景が物凄い勢いで円転する
自分の意思とは関係無く、瞬きを繰り返した結果
傾く視界の中、漸との事で彼女の姿を捉えた
彼女は目前の競技用プールに佇んでいた
波影が揺れる、水面に佇んでいた
スタート台にしがみ付くように座り込む
すずめが身を起こそうとするのと同時に懐かしい、笑い声が降り注ぐ
酷く場違いな程、心地良く響く声
此の時の心理は何なのだろう
怖い反面、興味本位で覗いて見たくなる
止せばいいのに
声の主が誰なのか
紛れもなく確信しているのに彼女はゆっくりと振り仰ぐ
隣のコースの、スタート台
其処に立つ彼が其の身を屈めて挨拶する
やんちゃそうな、人懐こい笑顔を浮かべる
歯の根が合わない
彼女は自分が立てる其の音を為す術もなく聞いていた