短編集82(過去作品)
ストレス
ストレス
「世の中って腹が立つからうまくいくんだよ」
と言っていたのは、友達の松永だった。
「どういうことだい?」
「ストレスは溜めない方がいいということさ」
今さらのように耳に残っている。
根本健二の頭の中は今冷静だ。さっきまで顔を真っ赤にして苛立っていたのが嘘のようである。
「人間、極限状態に陥ると笑いたくなるらしいんだ」
「よく知ってるな」
「全部人から聞いた話さ。家の近くに住んでいたじいさんが教えてくれたんだ。よく子供の頃には縁側で話を聞いたものさ。まあ、最初はいつもくれるお菓子目当てだったんだけどな」
よほど松永はその老人が気に入っていたようだ。もしくは、くれるお菓子がおいしかったのだろうか。元々貧乏性な方で、およそ人の話を黙って聞くなど考えられないタイプの男である。
松永という男との付き合いはそれほど長くない。ここ三年くらいのものだろうか。それでも以前から知り合いだったように思うのは、今まで根本が経験した世界とは違う世界に生きていた人間に見えて、新鮮に感じるからだろう。
松永の過去についてはあまり知らない。社会人になってからは、学生時代の友達と連絡を取ることもなくなり、皆それぞれ新しい世界で、馴染むのに必死なのだろう。その気持ちはよく分かる。根本自身も同じような思いをしたからだ。
松永は社会人になって初めて知り合った人だった。会社の入社式で席が隣だったというだけで、まさか腹を割って話せる仲になろうなどと思いもしなかった。
最初に見た時は軽めの男に感じられた。学生時代は大いにナンパなどに精を出して青春を謳歌していたように見える。いつもニコニコしていて、人見知りもせず、人に気ばかり遣っているように思えて仕方がなかった。だが話をしてみると彼の口から出てくる言葉を予測できるのだ。彼にしてもそうなのかも知れない。
「前から知り合いだったように思えて仕方がないんだ」
どちらから言い出したのか分からないが、お互いに大きく頷いていた。
「俺のモットーはストレスを溜めないようにすることさ。それが仕事であっても、ストレスが溜まりそうなことは、なるべく避けるようにする。人をじっと観察していればストレスはたまらないかも知れないね。ストレスって突き詰めればすべて人間関係が絡んでいるんだよ」
そうは言っているが、根本から見た松永が一番ストレスを溜めていそうに思える。腰が低いのはいいのだが、いつも誰かに頭を下げていて、気を遣っているのもここまで露骨になれば、気の毒さを通り越してイライラさせられる。人間関係を壊したくないと思うのも度が過ぎると見苦しい。そんなところが嫌でたまらなかった。
自分に自信がないからだろう。自信がないから人にぺこぺこしていて、自分を正当化しようとする。目に見えての露骨さは不快感でしかない。
しかしそれも最初だけのことだった。そのうちに自分に自信が生まれたのか、断り方にも威厳さが滲み出ているように見える。
器用、不器用というのもあるのだろうが、持って生まれた性格で、どうにもならないこともある。しかし、それなりに形になってくるのもその場に馴染んでくるからで、まわりの見る目も少しずつ変わってくる。
「松永さんって腰が低いだけだと思っていたけど、頼りになるところもあるのね」
女性の見る目が変わってくると、男性からの目も必然的に変わってくる。最初のイメージとのギャップがかなりあったせいか、人気がうなぎのぼりだった。
「あんな人を上司に持てば、仕事も楽しいのにね」
とまで噂しているらしい。
軽めに見え、腰も低いのだが、上司からの信頼は厚いようだ。そつなく仕事もこなして、痒いところにも手が届くようで、サラリーマンとしては「できる社員」なのだろう。
私生活においてはどうだろう? 数人の女性と付き合っているという話らしいので確かめてみたが、
「ああ、数人と付き合っているよ。せっかく相手が仲良くなりたいんだからいいじゃないか」
平然と言ってのけるところが少し信じられなかったが、要領がいいのか、あまり表に出てこない。彼の口ぶりでは女性が惚れてくるのだという。惚れてくるのだから、嫌われたくないと思い、もし変な噂を聞いても本気にしないだろうと楽天的に考えているようだ。実際に聞かれても、
「君だけだよ」
と一言言うだけで済むと嘯いているが、彼なら本当にそれだけで済ませてしまいそうだ。
根本にはそんなマネは絶対にできない。考えていることがすぐに顔に出るタイプなので、すぐに相手にバレてしまう。正直者だといってしまえばそれまでなのだが、何度松永を羨ましいと思ったことか。しかし性格の違いはいかんともしがたく、どうしようもないものである。
根本が一番松永を崇拝するところは、やはりストレスを溜めないという考え方だろう。口でいうのは簡単で、難しくないことなのだろうが、根本の性格では無理に思えた。ストレスなんてものは気がつけば溜まっているもので、気をつけているからといって溜まらないものではない。
それは自分に躁鬱症の気があることから分かったことだが、それまで感じたことのないストレスは欝状態の時というよりも、むしろ躁状態から欝になりかかる時に気づくのだ。
欝状態へ陥りかけると分かってくる。目の前の色が黄色掛かって見えてくるからだ。そんな時、黄昏たような気分になり、気だるさを感じる。それがストレスから来るものだと感じるのは、肩にだるさを感じるからだ。
根本が最初に疲れを感じる場所はいつも肩からであった。あまり肩が痛いというとまわりから、
「歳じゃないんですか?」
とからかわれるのが嫌で、誰にも言ったことはないが、肩の痛みは徐々にやってくる。欝状態も徐々に襲ってくる。入り始めの意識はあるのだが、じわじわと真綿で首を絞められるようであまり気持ちのいいものではない。
実際ストレスなどという言葉、社会人になるまでは使ってはいけないものだと思っていた。学生の頃にはどう考えても社会人のストレスなど分かるはずもない。恐れ多くて使えるものではなかった。
「お前、最近ストレスが溜まってるんじゃないか?」
学生時代に友達から言われたこともあったが、
「そ、そんなことあるもんか。気のせいだよ」
と、しどろもどろに慌てて否定したものだった。そんな不自然な行動にさぞや友達も滑稽に感じたに違いない。
だが、彼の指摘が間違っていなかったことは、すぐに襲ってきた欝状態で理解することができた。
理不尽なことが許せない性格なのが、一番ストレスを溜める原因なのかも知れない。タバコのポイ捨て、使用不可の場所での携帯電話の使用、違法駐車、刑に問われることはないが、モラルに反することである。
「刑に問われないからいいじゃないか」
この考え方が一番理不尽である。たちが悪いといってもいい。下手に文句をつけると逆ギレされて、何をされるか分からない。言いたいのに言えない状況に、ストレスを溜めるなという方が無理である。
「気にしなければいいじゃないか」
といわれれば確かにその通りなのだが、
「気になるものは仕方がない」
と間髪いれずに言い返すことだろう。
作品名:短編集82(過去作品) 作家名:森本晃次