sakura
ホテルを出るとかなり強い風が吹いていた。
「手をつなぎませんか」
さくらにそんなことを言われて、明は戸惑った。明はタイムスリップして10代に戻ったようにさくらの言葉を感じた。
「ありがとう」
明は素直に受け止めた。ほとんど明は手袋をしない。さくらも素手である。どちらの手も冷たいのだろう。だから
「温かい」
明とさくらは同時に同じ言葉を言った。
「帰り道はスマホを観なくて行けますからお話ししましょう」
「分かりました。紀州犬は、飼い主以外はなかなか慣れないんでしょう?」
「だから、本当に可愛く感じてしまいますよ」
「忠実。いいですよね」
「昔の女性もそうだったんですよね」
「僕の時代はそんなことはないよ。上州名物かかぁでんかに空っ風でね、妻が威張っていましたよ」
「じゃぁ、忠実な女性に憧れていませんか?」
「忠実でなくても、優しい女性に憧れます」
「演じて差し上げますよ。2人でいる時間だけは」
「夢の時間だね」
「夢を見ていたと言ってましたよね。どんな夢でした」
「あぁ。海に沈んでいくような、潜っていくような感じで、キラキラ光る魚の群れに出会い、人魚に会うことが出来たんだよ」
「人魚のモデルはジュゴンと聞いたことがありますよ。ジュゴンなら私は本物を見ました」
「僕も昔水族館で見たよ。たぶん、キャベツを食べていたような記憶が残っているよ」
そんな話をしながら、駅に着いていた。
明はエスカレーターに乗った。さくらは乗る手前で、繋いでいた手を離した。かすかに汗ばんでいたのだろうか、冷たい風がさくらの手を凍らせるように撫でていった。背を向けた明が、登りきるまでさくらは待った。それなのに、明は振り向きもせずに、歩き出して消えてしまった。
さくらは、優しい女性を演じていたのにと思いながら、そんなものなのかな?と思ってもいた。