Solid contact
言葉と同時に、両目が熱くなった。視界が涙で歪んでも、まだわたしはそこに映っていた。自分で蓋をしていた、最後の言葉。高地くんや志和さんには、こんな情けないことは言えない。愚痴じゃなくて、わたしの本性だから。鏡に映った自分に言っているのに、不思議と何かを吐き出した感覚があったし、ずっと土台だと思っていた地面がぐらりと揺れて、体はふっと軽くなった。家に帰るだけの力が湧いて、わたしは小走りで駅に向かった。それから数日経った夜、盗撮していた犯人が特定されて捕まったということが、志和さんからのメールで知らされた。大学の関係者ではなくて、大きなカメラを持って歩く不審な男を見つけたジャンガリアンが、追いかけて捕まえたらしい。
キャンパスには平和が戻った。そう思ったけど、三日後、志和さんからメールが届いた。
『とんでもない置き土産だよ。もう広まってる』
添付された写真は、バレーボール部になじみの深い場所。でも、試合で使うコートじゃなかった。それは更衣室で、ほとんど何も着ていない矢田川先輩が写っていた。
『これ、広まってるの?』
『また、あの共用パソコンに入ってたんだ。メールで受け取った知り合いもいるぽい』
次の日、矢田川先輩は練習に来なかった。
― 現在 ―
志和さんと久々に話していて思うのは、大学時代の感性で捉えていた『善人』や『悪人』の概念というのは、年齢を重ねると共に変わるということ。例えば、あれだけ苦手だったジャンガリアンは、少しだけ老けていたけど、車がスムーズに出られるように、自転車がはみだして占領する駐車場を綺麗に片づけてくれていた。内心ブチ切れている可能性はあるけど、仕事はしている。厳しさは、その裏返しなのかもしれない。それでも、何台か投げつけるようにどけていた手つきを見る限り、正義が行き過ぎると、自分の行動を勝手に正当化してしまいそうな危うさはある。
あの事件以来、矢田川先輩は、部室に来なくなった。その周りの記憶は鮮明で、志和さんが盗撮犯の逮捕を伝えてくれたのは火曜日、写真が広まったのは、金曜日だった。そんな細かなことまで覚えているぐらい、衝撃的な事件だった。そして、キャプテンが欠番のまま迎えた試合でメダルをかけられたのは、わたしだった。観客席でひとりだけ早いタイミングで拍手をしたのが高地くんで、その隣で志和さんが笑いながら体を掴み、引き戻したのも見えた。ジャンガリアンと守衛仲間すらいて、大学全体から祝福されているようだった。でも、わたしもそれっきり、バレーボール部は辞めてしまった。矢田川先輩あっての、わたしだったのだと、今でも思い知らされる。
「高校でも、盗撮には目を光らせてるよ。意外に多いんだ。特に生徒同士だと罪悪感も薄いみたいでさ」
志和さんは、当時のことを思い出しているようで、眼鏡の中で目を細めた。わたしは言った。
「矢田川先輩がいたら、ちゃんと伝えたかったな。尊敬してたって」
志和さんはうなずいた。教授から解放されて戻ってきた高地くんも、隣で深くうなずきながら、言った。
「そう思えるなら、こっちの勝ちだね」
わたしはオレンジジュースを飲んで、連絡先を二人と改めて交換した。その中に矢田川先輩がいれば、どれだけよかったかと思う。ゼミどころか学部が違っても、あの人は、わたしの大学生活の一部で、心のどこかに一度は住んでいた。
会は夕方にお開きになって、高地くんは学生時代から変わらない、平べったいスポーツカーで去っていった。志和さんは英文科の教授についていって、二次会に参加。わたしは帰ることにして、キャンパスの中をぶらぶらと歩き始めた。ゼミの部屋があった建物は、今は部外者だから入れない。掲示板は、オンライン講義が主体になっているからか、がらんとしている。当てもなくキャンパスを歩き回っていると、志和さんからメッセージが届いた。
『まだあった。先輩の思い出に乾杯だね』
何を送ってくるかは、なんとなく予想がついた。添付されていた画像は、六年前に広まったあの写真。無意識に保存している内に、頭の中が、ふっと切り替わった。社会人になって環境が変わったことで、感情がばね仕掛けで無理をして止まっていたようだ。六年前のあの夜、何度かメールをやり取りしたあと、電話に切り替えた。写真に対する志和さんの感想は、今でも覚えている。
『なんつうか、ユニフォームがないと鶏ガラだね』
その悪意に満ちた意地悪な言葉は、こちらに鳥肌を伝染させるだけの力があったし、今も彼女は、それほど変わっていない。高地くんがいれば、このやり取りは起きない。そこは一線を引いてきたし、自分たちがいかに意地が悪いかということも理解しているつもりだ。まるで、盗撮犯が自由自在に動き回るのを、期待していたようだ。
そして、こうやって昔の悪意で今でも遊べるんだから、わたしたちは『善人』じゃない。わたしはそう思いながら、鏡張りの建物をぐるりと回り込むように歩いた。駅までの近道。あのとき、鏡に向かって放ったひと言が、わたしを変えた。だから、今回も変わらなければいけない。わたしは、鮮明に写った写真を眺めた後、昔やったみたいに鏡に正対して、気づいた。ここは、さっきまで会食をしていた場所だ。今立っているのは、入口とは反対側で、中からは外の景色が見えていたことになる。よく考えたら、本当に鏡なわけがない。窓なんだから、マジックミラーに決まっている。わたしは当時、どうして気づかなかったんだろう。それぐらいに余裕がなかったのだろうか。突然足を止めて、叫び出した女。当時は工事中だったから、聞いていたとしたら、工事の人か、大学の関係者か。いきなり『邪魔なんだよ』は、怖かっただろうな。わたしは思わず笑い出していた。
「ごめんなさい」
なぜか分からないけど、この鏡に向かってだけは、好き勝手に言える。片づけは終わっているはずだから、もう誰もいないだろう。でも、あまり大きな声で言えないし、にこにこ笑っていたら、また怪しい人だ。わたしは真顔に戻った。鏡の中にも、笑顔を消した自分がいた。思い返せば、六年前もこんな顔で、わたしは被害者面をするのがうまかったと思う。あの鏡に映った自分の顔は、ちゃんと痛めつけられているように見えたのだから。だから、あんな顔は二度としないようにしている。
わたしは志和さんに返信をせず、受信したばかりの写真を探した。撮影日時順に並んでいることに気づいて、画面を逆にスクロールしていると、今のスマートフォンで撮った最初の写真より手前になっていた。あっさり一番古い写真として、忍び込むなんて。それに、こんな写真、今のわたしには要らない。
この写真が撮影されたのは、六年前の木曜日。それは、矢田川先輩にとっての、最悪な日だった。今は、当時の彼女の気持ちが憑依したように、指先まで伝わってくる。そのまま削除ボタンを押そうとしたとき、違和感が指を止めた。
盗撮犯が捕まったのは、火曜日だったはずだ。でも、この写真が撮られたのは、それより後だ。そしてそれが、わたしの首にかかったメダルのきっかけになった。
作品名:Solid contact 作家名:オオサカタロウ