Red eye
有坂が言うと、葉月はシフトレバーを一速に入れた。勢いよく道路に合流すると、アクセルを深く踏み込んでスピードを上げながら、続けた。
「お前は、このスープラに乗って逃げたことになってる。さっき電話で、おれが言った通りだ」
「相手は誰だ?」
「社長だよ。おれを誰だと思ってんだ」
葉月はそう言って、笑った。有坂は苦笑いを浮かべて、先を促すように視線を向けた。葉月は続けた。
「おれが今向かってるのは、海沿いの家だ。社長と護衛二人がいる。もしかしたら、ひとりはGPSを追って、探し回ってるかもしれない。護衛を二人とも送り出すことは、まずないだろうな。ひとりは社長を守っているはずだ」
静かに聞いていた有坂は、ふと思い出したように、視線を上に向けた。
「あの地図は、何だったんだ? お前が用意してくれた、二枚目の地図だよ」
「おれがあの場で死んでたら、途方に暮れるだろ? お前に向かって引き金を引くのは、中にいる二人で、おれは外で待つ段取りになってた。だから、ああするしかなかったんだ。お前が追い込まれるとしたら、あの四か所のどれかになる」
葉月は海岸沿いの道路へ続く下りの山道に入り、エンジンブレーキをかけながらコーナーを抜けた。お互い無言のまま数十分を走って、待避所をやり過ごしたとき、葉月はバックミラーを見て歯を食いしばった。
「来たぞ」
車間距離は相当空いているが、バックミラー越しにヘッドライトが点くのが見えた。ローレルのクラブS。駅で見張っていたのと、同じ車。弾は飛んでこない。運転手しかいないのだろう。有坂は身を低くしながら四五オートを抜いて、胸の前に引き寄せて、言った。
「振り切るか?」
葉月は、首を横に振った。二人が乗っていることに気づかれただろうか。もしそうでないなら、山道を下り切ったところにある信号で、速度を落としたタイミングで並び、そこでカタをつけるつもりだろう。今の状況で一対一なら、ローレルの運転手が返り討ちになることはない。
「その弾は、ドアを抜けないかもしれない」
葉月が言うと、有坂はポケットティッシュを取り出すと、一枚ずつ丸めて、両耳に詰め込んだ。顔の前まで持ち上げて撃つつもりだということを理解した葉月は、シフトレバーを二速に入れて、エンジンブレーキを強くかけた。すぐ目の前に迫る信号は、赤。ローレルはまだかなり離れている。有坂は言った。
「窓は抜けるだろ」
「おれの耳栓はないのか?」
「手で塞いでろ」
有坂はそう言って、口角を上げた。葉月は、シフトレバーを一速に入れた後、クラッチを切ったままゆっくりと停車した。ローレルは車間距離を少しだけ長めに開けているだけだが、同じように赤信号で停まった。
「奴は、人数を読んでるな」
葉月が言うと、有坂はうなずいた。信号が青に変わるのと同時に、葉月はアクセルを強く煽ってクラッチをつないだ。タイヤが鳴き、車体がミサイルのように飛び出した。ローレルは大きな車体をぐるりと回すように方向転換させ、スープラとほとんど変わらない加速で一気に回転を上げた。
「本気を出したな」
葉月は短く言い、シフトレバーを四速まで上げた。時速百キロに達しても、ローレルの速度は変わらず、車間距離こそ詰められてはいないが、それでも逃がすつもりはないように見える。有坂が言った。
「リアウィンドウが狭いな。なんでこんな車にしたんだ」
「速いからだよ」
葉月は言いながら、ローレルの進路を塞ぐようにセンターラインを大きく割った後、最小限の修正舵で車体を元の車線に戻した。ローレルはスピードを上げているが、追い越すつもりはないらしく、時折姿勢を崩しながらも、それ以上の無理をすることはなかった。葉月は、有坂に言った。
「海沿いの家だ。地図、覚えてるか?」
「あと七百メートルってとこだな」
有坂が自信に満ちた声で言ったとき、葉月の目に、少しだけ高い位置に建てられた建物が映った。上がる道は複数ある。最後の緩やかな右コーナーに差し掛かり、車体が傾く中で、百メートル先の家が、ちょうど真正面の位置になった。
「伏せろ!」
葉月は叫んで、顔をそむけた。ローレルが追い越そうとしなかった理由が分かるのと同時に、家の中がフラッシュを焚いたように光り、フロントガラスとダッシュボードが破裂したように砕けた。家の中から、仕留めるつもりだったのだ。葉月が顔を上げるよりも早く、ローレルが右に車体を振って並ぶように加速した。有坂は、運転席側のクォーターウィンドウ越しに、一瞬だけ見えた運転手の顔に向けて引き金を引いた。狭い車内がオレンジ色に光り、ローレルのガラスが粉々に割れるのと同時に、葉月がステアリングを大きく右に切って、ローレルの車体を反対車線に弾き飛ばした。一瞬だけ見えた大森の頭にはすでに穴が開いていて、死んでいることが分かった。分離帯に車体の底を掬い上げられたローレルは、スープラと並走したまま横転した。屋根を下に火花を散らしながら滑る姿をバックミラーで見ながら、葉月は言った。
「いい腕だな」
「今のは、まぐれだ」
耳栓を抜いて、笑いながら言う有坂に愛想笑いを合わせると、葉月は四速から二速に落として、交差点を右に曲がった。ヘッドライトを消して、ほとんど真っ暗な山道を一気に抜けた。有坂は暗闇の中で、ダッシュボードに触れた。
「ライフル弾だな」
飯山と護衛の藤吉は、同じ場所に籠るだろうか。少なくとも、藤吉は百メートルの距離から正確に狙えるライフルを持っている。しかし、部屋に入り込まれれば役に立たない。車で逃げるだろうか。こちらはフロントガラスに穴が開いている上に、ローレルを弾き飛ばしたときに右のフロントタイヤのバランスが狂っている。どういう状態かは知っているだろうし、何よりこの車には発信機がついている。葉月は、路肩にスープラを寄せると、後席に放られたグリースガンを掴み、運転席から降りた。有坂もそれに続き、林に入っていく葉月に言った。
「林をぐるっと回るのか?」
「半分だけだ」
葉月は顔をしかめながら、真っ暗な林の中を歩き始めた。身を低くして、枝を避けながら静かに歩く後ろを、有坂は同じように頭を下げたまま続いた。葉月は大きな岩の後ろにたどり着くと、有坂をその後ろに伏せさせた。家の山側に降りるルートは、数本ある。
「窓の中の動きが見えるだろ」
ブラインドは下りているが、影が動いているのは分かる。有坂は目を凝らせた。細長い箒のような影は、おそらくさっきスープラに向けて使ったライフル。
「藤吉だな。あいつは社長のお気に入りだ」
葉月が短く言ったとき、スープラを停めた側の窓から銃口が突き出るのが見えた。有坂は笑った。
「銃口を出したぞ。どういう教育してんだ」
「廃業するのも分かるだろ」