Red eye
グラスを二つ持ってきた葉月は、有坂とテーブルを挟んで向かい合わせに座り、両方にマッカランを注いだ。葉月の険しい表情を眺めていた有坂は、思わず笑いながら言った。
「おい」
聞き逃した葉月が、ペン立てからパーカーのボールペンを抜いたとき、有坂はもう一度言った。
「葉月、十五年ぶりだぞ。立ち飲みで一杯やるわけじゃないんだ」
葉月はようやく聞き取り、有坂の目を見返した。グラスを掲げて、言った。
「そうだな、再会に」
乾杯をしてグラスを空けた後、有坂は言った。
「来年、高校だ。うちの子の話な。私立に行くから、学費が悩みの種でね」
有坂は、殺し屋として二十代を過ごしたが、今は市井の人だ。家具店を経営しているが、わざわざ商品を見に来なくてもネットで買える時代には、厳しい商売らしい。インターネットの通販は好調だが、大型店相手に値引きでは勝てないという。葉月は、メールのやり取りが中心になった相手が目の前にいるということに、改めて居住まいを正した。メールなら返信せずに放っておけばいいが、目の前の相手は帰さない限り、そこにいる。
「女の子だっけ?」
「そうだよ。でもな、ゲーセンで銃のゲームばかり選ぶんだ。おかしいよな?」
「お前の娘って感じがするよ」
葉月は笑った。性別を聞くのも、今日が初めてだった。会うと、歯止めが利かなくなる。それはどことなく、頭で理解していた。放っておけば、このまま思い出話だけで、朝を迎えることになる。相手を殺すという最終手段を知り尽くした二十代の自分たちは、怖いもの知らずだった。それは間違いない。一度も解凍されずに安置してきた記憶が、蘇っていた。葉月は言った。
「ヒップシュートさせてみたら、分かるんじゃないか」
「確かに」
有坂は、サイトを見ることもなく、抜いた拳銃を腰の位置から前に向けて、まっすぐ弾を撃つことができた。その才能は本物で、葉月の命を救ったこともある。有坂は二杯目をゆっくりと味わいながら、図面に目を落とした。
「この辺は、昔から変わらないんだな」
ゼンリンの地図に、蛍光マーカー。マジックの赤い丸印に、写真。紙のいいところは、燃やせば塵になるということだ。履歴やデータに残らない。有坂は地図の内容を数秒で読み解き、言った。
「波止場の反対側から狙撃か。相手は船から降りないのか?」
「相当ビビってるらしい。朝はデッキでラジオ体操をするらしいけどな」
船の上にいるということは、上下左右に常に揺れている状態だ。波止場から持ち場までの距離を地図上で測った有坂は、笑った。
「三百七十? 無茶だろ。サプレッサーは?」
「現物はまだ見てないが、あるだろうな」
「じゃあ、亜音速だろ? それで三百七十? しかも相手は上下左右に揺れてるんだよな?」
「呼んだ理由が分かっただろ?」
有坂は少しだけ頬を紅潮させていた。それがマッカランによるものなのか、それ以外に何かあるのかは、読み取れない。葉月は、蛍光ペンで書かれた線をなぞった。オレンジ色の線は、出入りするためのルートを示している。
「田川が、こっち側の出口で待ってる。全力で走ったら、持ち場から十秒だ」
有坂は自分の腹を見下ろしてから、笑った。
「十秒は保証できないかもな」
「元々、足は遅かったろ」
葉月が言ったとき、そこで会話が止まった。足の速い奴となると、どうしても佐山の顔が浮かぶ。有坂は小さくうなずいた。
「それに、銃の腕も分からないぞ」
そう言いながら掲げた左腕は、今でも動きがぎこちない。二の腕の筋肉を削いだ四五口径は、ハイドラショックと呼ばれるホローポイント弾で、人体に可能な限りのダメージを与えるために設計されていた。十五年前の古傷。引退するというのは、一体どういうことなのか。それは、この傷跡に刻まれている。有坂は、腕を下した後、葉月の顔を観察した。安全装置を親指で解除するときの、あの小さな音。時計の秒針が鳴るのを聞き取るぐらいに、意識でもしていなければ困難だ。葉月の助けがなかったら、二発目でとどめを刺されていたかもしれない。仕事用の家で葉月と話していたとき。四五口径で口封じに現れたのは、佐山だった。ちょうどトイレに入ったところだった葉月は、飛び出してくるなり三八口径を抜き、真横から佐山の頭を撃って殺した。飯山が謝る姿を見たのは、このときだけだった。佐山は常に、自分が警察に売られるのではないかと不安がっていた。有坂自身は、仕事用の家のことを親しい仲間以外に他言しないよう注意していたが、佐山はそれを見つけた。若いころの三人組は、そうやってひとりの死体を残して終わった。有坂が得たのは、自分の家族を持って引退するという、自由へのパスポート。
それにしても。有坂は、見取り図を俯瞰して、ひとつのことに気づいた。
「反対側を誰かが塞ぐことは、ないのか?」
出入口は二つある。片方で、田川というドライバーが待機しているのだろう。しかし、逆側の入口はがら空きだ。両方が大きな道路に面している。誰にも悟られずに裏を取れる道が残っているのだ。葉月は言った。
「反対側は空いてる。何かが起きたら、例の十秒だ」
「走れってか? お前、無茶だぞ。後ろを気にしながら狙撃はできない」
有坂はそう言いながら、二十年前ならどう考えたか、当時の自分を思い出そうとした。狙えば周りの空気が共に支えているように、サイトはぴたりと止まった。意識などしなくても、引き金を引く瞬間は呼吸の半分が肺から抜けている状態で、その動きは機械仕掛けのように正確だった。それから、ありとあらゆる人間的な行事に関わり、浸かってきた。機械のような手は、妻の薬指に指輪を滑り込ませたときから、その役割を変えた。それは、二十四時間家族を案じ、予測不能に駆け回る娘の動きに合わせて、カメラを振る手になった。
「他にいないんだな? 十五年前に引退した中年男を頼るしか、本当にないのか?」
有坂が言うと、葉月はうなずいた。
「すまないと思ってる」
「本当に、そうなのか? おれが乗るって、最初から分かってたんじゃないのか?」
有坂はグラスを置いて、地図を眺めた。娘に向けるカメラのグリップと、標的に向ける銃のグリップは、本質的には同じだ。狙った相手を逃がさないために、人間の手に吸い付くようにできている。そのスイッチを切り替えるには、マッカランをひと晩かけて飲み干す以外に、方法は思いつかない。
「乗ったのか?」
「お前、おれと顔を合わせてるんだぞ。十五年ぶりなんだ。その間に何があった? 眼鏡をかけだしただけってことはないだろ?」
「おれは現役だからな。話せることは少ないんだ」
「おれが乗ったら、話すか?」
「いいや」