Red eye
オールドパーを二人で空にした夜、飯山は言った。口約束だが、今でもそれは有効だろう。他愛ない会話での約束事は、今までに山ほどあった。そのほとんどが意味のないものだ。今、ロック画面には、一件の返信が通知されている。『またな』という言葉は、再会の約束だったのだろうか。今となっては、分からない。有坂は、三十二歳で引退した。十五年前のことだ。子供が生まれたことに困惑している様子で、実感が湧かないとしきりに言っていた。それでも忠実な『引き金』であろうとする有坂に引退を勧めたのは、葉月だった。
『この業界だと、持たないぞ』
『足を抜けると思うか?』
よく通ったバーで、カウンターに並んで座り、そんな会話を交わした。お互いの目の前には、グラスに薄く張られたマッカラン。球の形をした氷は透き通っていて、その複雑な模様は、地球を琥珀色だけで再現したようだった。有坂の心配事は、葉月もよく理解していた。自分たちの仕事のお陰で生活が楽になったり、悩みから解放された人間はあちこちにいるが、誰かが死んで初めて望みが実現されたという、不都合な共通点がある。つまり、かつての顧客にとっては、自分たちは脛の傷なのだ。そんな人間が急に姿を消したら、どこかで話されるのではないかと、不安がる人間も出てくる。色々な危惧はあったが、結果的に、なし崩し的に有坂は引退を許された。
ロック画面を解除して、有坂が返してきたメールの中身を読んだ葉月は、読み終わる前に返信を考えていた。十五年前と同じように、酒を飲みながら話す。このご時世では、そんなこともかなわない。店はほとんどが閉まっているし、出歩けば目立つ。
『宅飲みってわけでもないが、うちに来るか?』
葉月はそう返信して、続いた数回のやり取りで最寄りの駅まで迎えに行くことを約束すると、上着とマフラーを掴んで、雑居ビルの裏にある駐車場まで下りた。六台が停まっていて、幌をかぶせられている二台は、年代物のステージアとフォレスター。どちらも過去の遺物で、場違いなぐらいに巨大なターボエンジンを積んだ、今では作られないようなタイプの車だ。両方、いずれ仕事で使われる。葉月は、そのさらに奥に停めた、アイボリー色のランドクルーザーの前に立った。ロクマルと呼ばれる型で、乗り心地も操作の重さも、乗用車と呼べるギリギリのラインだが、簡単には壊れない。葉月がポケットから鍵を取り出したとき、白のBMWの四シリーズが入ってきて、運転席から頭を出した増井が愛想笑いを浮かべた。
「お帰りですか?」
「そうだよ。お疲れさま」
増井は、頭を半分出したまま器用に車庫入れして、降りてくるなり言った。
「社長、やめちゃうんすかね」
増井にはまだ伝えていないはずだが、飯山の『廃業宣言』は、いつの間にか公然の秘密になっている。
「金庫、すっからかんにしてやれよ。お前、得意だろ」
葉月が言うと、増井は少しだけ体をのけぞらせて、笑った。笑顔になるまでに少しだけ存在した間に増井の頭を巡ったのは、『それもありですね』なのか、それとも、『そのつもりです』か。どちらにせよ、増井のことだから、何か計画は立てるだろう。
「葉月さん、この業界で長いですよね。そのこと自体が珍しいんじゃないですか」
「現場から管理側に回ったのは、おれが初めてだよ」
葉月はそう言って、手で銃の形を作ると、笑顔のまま増井の頭に向けた。ワンテンポ遅れてぎくりとした増井は顔を引いて、ビルの入口へ消えていった。葉月はランドクルーザーに乗り込んで、家までの道を走らせた。途中、酒屋に立ち寄ってマッカランの十八年を買った。家には、タリスカーしか置いていない。会うこと自体が、十五年ぶりなのだ。連絡自体はメールや電話で取りあっていたが、お互いの風体はどこか遠慮しあうように、写真などでやりとりすることは一度もなかった。
夜八時、駅のロータリーはがらんとしていて、店の電気も消え始めている。葉月は、十五分前に行き過ぎて停まった一台の車に、注目した。最終型の白いローレルだが、ターボのRBエンジンを積んだクラブSで、相当速いだろう。そのローレルが停まっている位置は、何とも中途半端だ。柱が近すぎて、歩道側のドアは開けられない。このロータリーを抜けた先には、信号がある。歩行者の数はそれなりに多く、赤信号では到底抜けられない。そのすぐ近くにタクシー用の入口があって、逆走にはなるが、そちらであれば、信号に影響されずに抜けることは可能だ。ローレルは、その出入口の前にいる。何かが起きれば、即座にこの場を離れられる位置だ。
視線を合わせないように、バスに乗り込む人の流れを見つめていると、窓が鳴った。葉月が顔を向けると、コートに身を包んだ有坂が言った。
「お待たせ、開けてくれ」
助手席に乗り込んだ有坂は、確かに四十七歳だが、予想していたよりも若々しかった。ランドクルーザーの車内を見回した有坂は、笑った。
「殺風景な車だな」
「家電みたいな車は、ごめんだね」
葉月はそう言うと、ランドクルーザーを発進させた。ローレルはまだ停まっていたが、中に二人が乗っていて、追い越すときに目を向けたが、暗くて人相までは分からず、どちらも前を向いたままだった。赤信号の前まで来て停車したとき、有坂は改めて挨拶するように、葉月の顔を見た。
「お前が、眼鏡? どっちだよ?」
「何が?」
「近眼か?」
有坂は目線だけでドアミラーをちらりと見た。ほとんど景色は映らないが、ヘッドライトの光なら見える。葉月は、現役時代から引き継いでいる有坂の癖を見ながら、笑った。
「どっちもだよ。久しぶりだな」
「顔を合わせるのは、十五年ぶりだぞ。何があったんだ」
有坂がそう言ったとき、信号が青に変わり、葉月はクラッチをつないだ。路面のでこぼこを容赦なく拾うランドクルーザーの中で、葉月は言った。
「狙撃だよ」
「は?」
有坂は、言いながら笑った。葉月はクラッチを踏み込んで、シフトレバーを四速に入れた。その荒っぽい音を聞いて、有坂は笑顔を消した。
「お前、本気で言ってるのか?」
「おれは本気だ。とりあえず、全容を聞いてくれ。車の中じゃ無理だ」
葉月はそう言って、有坂が口を閉じるのを待った。聞きたいことは山ほどあるだろう。一時間ほど走り、緩やかな山道沿いに建つ一軒家の、砂利敷きの車庫にランドクルーザーを入れた。エンジンを止めたとき、有坂は言った。
「全然、最寄りじゃねえな。これは本当にお前の家か?」
「おれの家だよ。田舎が好きなんだ」
葉月は運転席から降りて、後部座席からマッカランの入った紙袋を取った。有坂は同じように車から降りて、言った。
「メシでも食うのかと思ったけど、違うんだな」
「マッカランならある」
葉月が紙袋を掲げると、有坂は笑った。
「もらっていいのか? ありがたいね」
葉月が鍵を開け、二人はロッジのような家に入った。暖房が常に効いていて、暖かなランプの光に満たされている。コートをハンガーにかけた葉月は、ソファを指さした。前のテーブルには、資料が広げられている。有坂はコートを脱ぎながら、苦笑いを浮かべた。
「広げたまま出てきたのかよ。不用心じゃないのか」