「キコちゃんはちょっと小さい」〜出会い編〜
3話目「お風呂の時間です」
キコちゃんがビスケットを食べ飽きて寝入ってしまっているのを俺はしばらく見ていたけど、見れば見るほど形だけは人間そっくりだった。でも俺はふと思い出し、洗い物を済ませてから、テレビでも観ようと思っていた。
「暇」というのは、俺から言わせてもらえば、「いかにだらしなく、下らなく消費するか」にすべてがかかっていると思う。
時間を無駄にするというのはいいものだ。それこそ最上の贅沢なのだ。「若いうちからサボって時間を無駄になんてしていたら、後でツケが回ってくるぞ」と言いたいお方もいらっしゃると思うが、心配ご無用。やるべきことは先にきっちり終わらせ、それから思いっきり無駄な時間を楽しむ。むしろ人生はそっちが本旨なのだ。
もちろんバイトの給料がなければ生活はできないから、働くことが無駄だなんて絶対に言わないし、成績が落ちるのもいけないので、ある程度は勉強もする。そうやって、働いたり勉強したりして、甲斐がある時間を手に入れるのも、とてもいいことだ。そしてさらに、自分で手に入れた余暇やら財産やらを遊びに使うということが、人間の人生を一番豊かにしてくれるのだ。他人からもらったお金でそれをしても、どこか申し訳ない気持ちは消えないだろう。自分でやることが大事なのだ。
というような底の浅い人生観を語っている間に、皿は洗い終わってしまった。この狭い部屋に、食器の水切りなど置く場所はない。なのですぐにタオルで茶碗など拭き、申し訳程度にシンク上に吊られている食器棚に戻した。
「一也さあーん!どこ行ったんですかあー!!」
テーブルに戻ろうとする直前でキコちゃんが泣き叫ぶ声が聴こえてきた。「もしかしたらこの子は物凄く手間がかかるぞ」と俺は予感しながらも、キコちゃんをなぐさめようと慌てて戻り、キコちゃんの前に座る。
「あーはいはい、起きたのね。いるいる。ここにいるから」
キコちゃんは俺が目の前に現れたのでまた嬉しそうに笑って、涙を拭おうと目の端をごしごしこすった。なんだかこの顔を見てしまうと、いつもの俺みたいに、「一人で勝手に生きさせてくれ」とは言えなくなってしまう。
「おなかはいっぱいかな?」
「はい!美味しかったです!」
「そっか」
というわけで俺は今から、「君は一体何なの?」とキコちゃんに聞かなきゃいけない。じっと彼女を見つめ、今一度、自分の想像力を働かせる。
妖精、妖怪、悪魔、天使…もしくは、遺伝子操作による産物、薬物実験で生まれてしまったもの…どれもこれも現実感はまるでないし、キコちゃんの様子から言っても、それらのどれも当てはまりそうな気はしなかった。
想像や伝聞でしかないけど、妖精ならすぐに魔法とか使いそうなものだし、妖怪や悪魔なら災いとなるような振る舞いをするだろう。天使なんかだったら宣託を告げたりなんかしそうだ。でも、キコちゃんにはそんな素振りは見えない。
そうだとするなら人為的に作られた実験動物かもしれないけど、それにしたって、こんなに自然と明るく過ごしている姿を見ると、なかなかそうとは思えない。
うーん。やっぱり俺にはわからない。聞くしかないか。
「キコちゃん、俺にはわからないんだけど…君は…なんなの?」
俺がそう言うと、彼女は急にショックを受けたような顔をして、うつむいてしまった。そうかもしれない。急に「お前は一体なんなんだ」という言葉をぶつけられて、存在すら理解されていないんだと思えば、誰だって悲しいだろう。
でも俺は、その先を受け止める覚悟くらいはあった。曲がりなりにも「面倒を見る」と決めたのだから。
しばらくキコちゃんは黙っていたけど、おろおろとし始めて、それから首をひねったり頭を押さえたりした後で、わっと泣き出してしまった。
「ど、どうしたの?あの、話したくなかったら、話さなくてもいいけど…」
キコちゃんは泣きながら首を振る。俺まであたふたしながら見守っていると、彼女はやっと顔を上げて、こう言った。
「私にも、わからないんです…」
わからない?どういうことだ?
「え、自分がなんなのかってこと…?」
「はい…」
これは困った。俺から見てもキコちゃんはおそらく人間ではないけど、自分がなんなのかはキコちゃん本人にもわからない。これではまったくお手上げというものだ。
「じゃあどうすれば…」
俺は困ってしまい、自分の顎を片手で気にしながら考え込んだ。
「あ、あの…!」
「え?」
声を掛けられて顔を上げると、キコちゃんは縋るような目で俺を見つめ、何か言いたげに口を開けたり閉じたりして、両手をもどかしそうに動かしていた。彼女はまた泣いてしまいそうだった。
「あの…私、迷惑かけません…だから…!」
これ以上泣かせるわけにはいかないな。俺はそう思って、「そうだね、まあそれはわからなくてもいいや」と言った。
人間の生活には、いろいろな段階がある。食事のあとは風呂に入る人が多いだろう。とは言っても、ここは本当に安いアパートなので、共同のシャワーしかない。トイレも風呂も共同で1部屋4畳半、家賃が月に2万4千円の、今時には珍しいくらいにオンボロな物件だ。よく取り壊しにならないなと俺は思っている。
俺とキコちゃんはさっきからテレビを観ていて、彼女はテレビで見る初めてのものについて、俺に次から次へと片っ端に質問ばかりしていた。でも、子犬が飼い主とじゃれ合っているだけのドラマのシーンが今は流れているので、質問は途切れている。その隙にまた聞かなければいけないことを、とりあえず俺は聞くことにした。
「キコちゃん、お風呂って入る…?」
なんとなく俺は答えがもうわかっていたのだが、「知っているか知らないか」というのは、確認しなければ答えとして存在しないんだなあと思っていた。
「えっ?“おふろ”って、なんです?」
うん。だと思った。俺はあらかじめ考えておいた言葉を出す。
「えっとね、埃とか、体から出る垢をお湯で流して、泡で洗ってから、ゆっくり温かいお湯に浸かってリフレッシュする、やつ…」
キコちゃんは時々首を傾げながら話を聴いていたけど、最後の言葉にはぴーんと背筋を伸ばして、嬉しそうに叫んだ。
「なるほど!リフレッシュですね!キコもしたいです!」
「あ、えっと…それで、ごめん…」
「どうしたんです?」
「うち、湯舟がないから…あっ」
その時俺は気づいた。
そうだ。何もキコちゃんをお風呂に入れるのに、大きな湯舟なんか必要ないじゃないか。
そこで俺はシンク上の食器棚から、いつもコーヒーだのジュースだのを入れるマグカップを取り出した。そして、それをテーブルの上に座っていたキコちゃんの横にちょっとかざしてみる。
「うん、よさそう」
「これに入るんです…?」
「そうそう。キコちゃんならこの大きさでいいと思うし、これにお湯を入れて来るよ。石けんとかも今用意するから」
「あ、はい!お願いします!」
キコちゃんは不思議そうな顔をしてマグカップを見つめていた。彼女は「へえー」と、何か感心している。
作品名:「キコちゃんはちょっと小さい」〜出会い編〜 作家名:桐生甘太郎