おその惣助物語(五話まで)
二人はそれから、おそのが「こっち、こ」と言い、村で一番目立たない川辺に来た。葦の中で虫たちが競い合って鳴いているのが大層騒がしかったが、他には誰も居なかった。おそのは川縁の石に腰掛け、惣助を隣に座らせた。
膝に乗せた手を震わせながら、時折涙を拭い、おそのはぽつりぽつりと、家であった苦労を話した。
染二郎が店の売りだめから儲けを全部持って行ってしまい、後で聞いても知らん顔をされたこと。
ある晩、母親と自分が用意した夕食を、染二郎が「大してうまくもねえ」と言い、それから家で食事をすることがほとんどなくなったこと。
父が病気になった時、「病人の近くにゃ寄りたぐねえ」と言って、一緒の部屋で眠るのを嫌がったこと。
そして、それらはみんな、染二郎可愛さに、甘やかし放題にしてしまった自分のせいだと、おそのは泣いた。
「こんままじゃ、染二郎さんはそのうち帰ってこなくなる……でも、もうどうにもなんねえと思って…そんでおら、気がついたら、あんなことぉ……」
そう言っておそのはさめざめと泣き、着物の袖口で目元をぎゅっと押さえた。
惣助はどうしてやったらいいのか分からず、かといって、今このまま帰してしまうのも不安だった。おそのを家に入れて家族の者を起こしても、喧嘩や言い争いになって、おそのがますます傷つくのは目に見えている。
おそのは泣き続けていた。
その泣き声は、こおろぎやすずむしの声に紛れて哀しく響き、惣助の胸を切り裂いてしまいそうになる。
「おそのさん…うちに、来るけ…?」
それを聞いておそのは、急に慌てたように着物の袖をあわせた。すると惣助はまたえへへと笑って、顔の前で両手を振る。
「だいじだ、だいじだおそのさん。おらならこねえだ、“独り身で通す”ってのぉ、婆様達に納得してもらったばかりだでぇ。それに、おめさまは死にかかったんだで。だから、“一晩休むためだった”っつうのを朝になったら話せばええだよ。それにおら、朝まで畑で暇ぁ潰してでもええし、うちの中にあ、入らねえだ。ただ、おらのうちにあ、多分おめさまのうちみでえに、うんといい寝床はねえけんども…」
そう言って恥ずかしそうに笑う惣助を、おそのは信じられない気持ちで見ていた。
なぜこの男は、自分のためにそこまでするのだろう?自分には、もう夫も居るのに。だからこそ気持ちを告げないのだろうけど、それなのになぜこの男はずっと…。
おそのはそれで、ふっと思い出した。
染二郎には、あんなにきつく抱かれたこともない。思い返せば染二郎は、自分との結婚を、“美しい娘を自分の傍に置くため”と思っているのではないかと感じる事もあった。
自分だって、必死に「夫を支えなければ」とは思っていたけど、「恋する気持ち、愛する気持ちがあったか」と聞かれれば、答えに窮してしまうだろう。
それからおそのは、しばらく考えていた。
染二郎は変わってしまった。かつてのように、父母を手伝うこともしてくれず、もう自分にも興味すらないようで、家にもほとんど居ない。
では、惣助はどうであろう。夫を持つ自分には何一つ口に出せやしないというのに、なんという想いの強さと、心根のやさしさであろう。
でもおそらく、ここで惣助の言葉に従えば、村人はみんな自分たちの仲を決めつけ、蔑むだろう。惣助が考えているほど、人々は疑いを知らないわけでも、素直なわけでもない。だから、断らなければ。
「せっかくだけんど…それは、惣助さんに迷惑かかるだで…」
おそのが俯いたままそう言うと、惣助は迷わずおそのの手を取った。
「でも、こんままじゃ、おそのさんがあぶねえだ!とにかく、何も考えずに休まにゃなんねえだよ!」
「惣助さん…」
「自分で死のうとするなんて、よっぽどのことだ!ほっとけねえだよ!」
惣助の目には、おそのの身を守るのが自分の本分だとでも思っているような、強い光があった。それが川の水にきらきらと反射した月明かりで、おそのにはよく見えた。
おそのはしばらく俯いて黙っていて、惣助にはその顔色はよく見えなかった。だが、やがてぽそっとこう言う。
「じゃあ、一晩だけ…頼んます…」
つづく
作品名:おその惣助物語(五話まで) 作家名:桐生甘太郎