跡始末
7:二重の焦燥
芝居の舞台に着いた明乃丞は、師匠の代理として申し合わせ(舞台のリハーサルのようなもの)に参加した。十二代目麗京は、病み上がりのため大事を取り、申し合わせには修行中の弟子を寄越したという名目だった。この言い訳は、何とか無事に受け入れられ、明乃丞は第一関門を無事に突破することができた。
その申し合わせ中、他の演者を厳しく叱咤する男がいた。背の高い偉丈夫で、美しいがやや険のある顔つきのその男は、見ているこちらが居たたまれなくなるくらい、ミスをした演者に対して、暴言を浴びせかけている。
「香竜さん、また始まっちゃったか」
明乃丞は、他の演者の言葉でやっと、叱咤する男が今回の芝居の主役である大谷 香竜(おおたに こうりゅう)であることを知った。香竜は、視線を感じ明乃丞の方を見やる。明乃丞と目を一瞬合わせた香竜は、代理に用はないとばかりに、再びミスをした演者に視線を戻し暴言を吐いた。
「あの人、ミスがあるといつもああなんだ」
その言葉を聞いて、明乃丞の心胆は寒くなった。万全を期して稽古を行ってきたという気持ちが、いきなり崩れていくような気がした。
「失敗は、絶対にできない」
師匠の代理で舞台に立つ以上、始めから失敗が許されないのは当たり前のはず。だがどこか、自分の中で気持ちが弛緩していた。自分のベストを尽くせばいい、未熟なりに頑張ればいい、という甘えが心に生じていた。そうではない、完全に、寸分の狂いもなく師匠になりきらなければならないのだ。明乃丞は、両手で自分の頬をパンパンと叩き、気合を入れなおした。
「でもね。香竜さん、一度競演した人は絶対に忘れないほど情にも篤いんだ」
その演者のフォローの科白を聞きながら精神を集中し、気持ちを新たにしたのだった。
申し合わせも一段落し、少し時間に余裕ができた明乃丞は、師匠の奥方に連絡を入れた。
「明乃丞かい」
奥方の声は、少し上ずっていた。
「さっき、弟子たちが何人か様子を見に来たよ」
奥方は、ため息を吐く。
「何とか理由をつけて追い払ったけど、総次郎さんの死は、とうの昔に漏れているのかもしれないね」
明乃丞は、奥方の報告に目の前が真っ暗になった。師匠の死が既にばれているというのなら、ここまで積み重ねてきたものが水泡に帰してしまうのだ。
「それに」
奥方は、さらに付け加える。
「マスコミも嗅ぎつけてきているようだよ。門前近くに車がずっと張り付いてる」
そうだ。隠すべき相手は兄弟子たちだけではない。スキャンダルを大きく書きたてようとするマスコミも、当然師匠の死をスクープとして掴もうとしてくるのだ。
これらのことに対して致命的なことは、今更明乃丞にはどうにもできないことだ。ここは屋敷にいる奥方に踏ん張ってもらうしかない。奥方自身もその点は承知しているのだろう。
「何とかこらえてはみるけど、まずいことになったらすまないね」
という言葉を最後に、通話は切れた。
先ほどの香竜の件といい、今の奥方の報告といい、明乃丞は、すっかり打ちのめされてしまっていた。でき得る限り手抜かりなくやってきたはずなのに、がらがらと足元が崩れ始めてきている。だが、立て直している時間も精神的余裕もない。なんせ、もう少しで芝居本番なのだ。だが、芝居さえ終われば一転攻勢をかけられる。それだけが、希望だ。
明乃丞は、時間がたつのが待ち遠しかった。はやく芝居が終わってくれという思いだけが頭の中を支配していた。
じりじりとした焦燥の中、開演の時間となった。