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跡始末

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6:足掻く



 まず、最優先しなければならないのは、稽古だった。

 まだ流派に入って半年の明乃丞と12代目の実力は、月とすっぽんもいいところ。今から三日間、最大限に時間を当てても到底、その差は埋まらない。当日に行われる演目それ自体は、明乃丞も客の一人として観たことはあった。だが、細部までしっかりと覚えているわけではない。まず、芝居内容の把握から取り掛かるという、絶望的な状況だった。
 師匠の葬儀のことについては、今は考えるべきではないだろう。師匠はまだ存命だし、ここから奇跡的な回復を遂げる可能性も0ではない。先ほどの師匠とのやり取りが、いっその事笑い話になってくれればいい。今の難局から逃げるつもりは毛頭ないが、そんな気持ちも心の片隅にはなくもなかった。
 だが、それだけではない。流派の解散手続きと言う問題がある。然るべき所に申し出ればそれで終わりかと思っていたが、その他少々面倒な作業があることがわかった。基本的には、芝居の後に取り掛かることになるだろうが、こちらも頭の片隅には入れておく必要がある。
 俄かに降ってきた様々な問題への対応を、脳内で協議しながら明乃丞は、芝居の内容を確実に頭に入れていこうとする。だが、頭にはなかなかすんなり入ってこない。
「……才能が、無いのだろうか」
明乃丞は、一人稽古場で音を上げかける。師匠の全てを模倣する必要はないのだ。数多ある芝居の中の、ほんの一つだけ、それを完璧に模倣すればそれで良いのだ。しかし、それすらも、今はできる気が全くしない。

 実際のところ、明乃丞はこの早水流最後の仕事に、最もうってつけの人材だったといえる。彼は、兄弟子たちのように、歌舞伎をビジネスと捉えてはいなかった。むしろ、その経験の無さ故に、純粋に芝居を好きでいられたのである。そして、12代目の弟子の中で唯一、師匠への忠誠が残っていた。他の弟子たちは押しなべて、次代麗京への権力争いに邁進し、麗京の歓心を買うことに専心していた。そして、早水の跡目が継げぬと見るや、すぐに掌を返すような輩たちだったのである。そういう点では、明之丞を選んだ12代目の見立ては正しかった。だが、いくら明之丞が適任であっても、託された仕事がすんなりとやれるとは限らない。皆が10点台の中、30点を取っていても、残り70点を埋め合わせないといけないのだ。今、明乃丞はその差に苦しんでいるのである。

 遅々として進まない稽古は、夜半過ぎまで休憩も無しで続けられた。あくまで秘密裡に事を進めなければならないことを念頭におき、明かりすらも必要最低限にして、明乃丞は稽古に打ち込み続けた。

 その稽古を中断させたのは、一本の電話だった。
「……明乃丞かい。忙しいところすまんね」
師匠に付き添っている奥方である。
「いえ、とんでもありません」
次に出てくる言葉は、明乃丞には予想がついていた。
「総次郎さんは楽になったよ。あんたにも死に水を取ってもらおうと思ったけれど、稽古を優先してくれたほうが良いと思ってね」
「お心遣い、ありがとうございます。これから、そちらへ向かいます」
受話器を置いた途端、明乃丞の目には涙があふれてきた。それももっともだ、師匠本人の指示とは言え、師の死に目に会うことすらできなかったのだ。だが、泣いている暇などない。残りの時間、師匠の言いつけの通りに、それこそ死に物狂いで足掻きまわらねばならないのだ。
 明乃丞は気持ちを奮い起こし、居住まいを正すと、稽古場を出て師匠の屋敷へと向かった。

「呆気ないもんだったよ」
師匠の屋敷に辿り着き、師匠の間にたどり着くやいなや、奥方は明乃丞にそう言った。
「病気がちでちょいちょい倒れていたが、いざという時はあっという間だった」
明乃丞は、傍らに膝をつき、しげしげと亡き師匠を見つめる。
奥方の言うとおり、その死に顔には、それ程苦悶の表情はなかった。
「葬儀についての段取りを話すために少しばかり時間をおくれ。あたしの方で取り仕切っておくから」
「心強いお言葉、ありがとうございます」
この矍鑠とした奥方が、今のところ明乃丞のほぼ唯一と言って良い味方だった。
明乃丞は、しばらくの間奥方と葬儀の段取りを決めてから、再び稽古場に戻り稽古に励むことにした。

 それからのことは、明乃丞本人もよく覚えていない。限られた時間の中で無我夢中で稽古を行い、奥方とともに葬儀の段取りを秘密裏に進め、流派の解散手続きについて調べているうちに、芝居当日となっていた。


作品名:跡始末 作家名:六色塔