跡始末
5:師匠と弟子と奥方と
明乃丞は、まだ言い争いをしている兄弟子たちの元へと舞い戻った。
「あー、新しい流派に、渡りをつけておいてよかった」
「おい。こうなったら新流派を立ち上げるぞ、お前もついて来い」
「早水を継げないとなったら、今までの心配りはなんだったんだ!」
師匠が傍らにいるのに、この体たらくである。誰も、せめて言葉の上でだけでも、師匠の危篤を心配する者などいなかった。皆、自分がこの歌舞伎の世界を生き残ることのみに専心している。だが、明乃丞は、このことをさして悲しいとは思わなかった。兄弟子たちは、師匠の元での長い稽古期間を経て、ちゃんと技術を持っている。彼らは、他の流派でも立派に生きていける人たちなのだ。その中には、老いた両親や家族を養う者もいる。保身に必死になるのは仕方の無いことなのだろう。一方自分は、あくまでも黒衣を志望してこの業界に飛び込んだ身。早水流が無くなってしまえば、黒衣を専業とする夢は潰えたも同然なのだ。先がある者と先がない者の違い、守る物がある者と守る物がない者の違い。兄弟子たちと自分との間にある決定的な溝は、きっとこういうところにあるのだろうと、明乃丞は考えていた。
だが、短期間とは言えお世話になった師匠には、明乃丞は心から信服していた。清廉潔白で公平無私、欲深さが無く足ることを知る人だ。弟子入りして半年間、師匠と言葉を交わした機会は驚くほど少なかった。先ほどの会話が最も長かったくらいである。その短時間のふれあいしかなくとも、明乃丞は師匠に限りなく心酔していたのだ。だが今、その師匠を心の底から想っている弟子は、明之丞一人だと言って良い。兄弟子たちがこれから先を見据えることは否定しないが、世話になった師匠を省みる様子が無いのは全く理解できなかった。
「ただ今、お師匠様から言付かりを頂戴いたしました」
兄弟子たちは、一度目を見合わせた後、明乃丞の言葉を待つ。早水流解散の言を、撤回したのではないかと思ったのだろうか。
「お師匠様の今後のお世話、仮に亡くなられた際の葬儀、
ならびに流派の解散手続きについてですが……。
ご多忙な兄さん方の代理として、私、早水 明乃丞に一任するとの事です」
兄弟子たちが多忙だから、というのはでっち上げだが、こう言っておけば多少は話が通りやすくなるだろうという計算だった。それを聞いた兄弟子たちは皆、どっと落胆する。そんなことはどうでもよい。どうせ、弟子達の間でも明乃丞にやらせればよいと話していたのだ。
「ならば、明乃丞。しっかりやっとけよ」
「お前にとって最初で最後の仕事だからな。心を込めて世話しろよ」
「そもそもそういうことは、言われんでもするものだ」
兄弟子たちは、口々に明乃丞に言い捨てて、師匠宅を出て行った。
兎にも角にも、当面兄弟子たちを、師匠の元から離すことに成功した。
次に師匠に近い者は、家族。と言っても12代目は孤独を好む性質で、この屋敷にすむ者は師匠の奥方しかいなかった。明乃丞は、彼女の部屋を訪問する。
明乃丞は、この年老いた老女に対して、正直にすべてを明かすことにした。だが、このような込み入った事情を、彼女が理解してくれるかどうかは、甚だ疑問だった。
「奥方様、折り入ってお話がございます」
「明乃丞か、なんだい。もう、あれは、いけないのかい?」
12代目の奥方は、膝を浮かせて、立ち上がる体勢を取る。既に、夫の死に対する覚悟ができている彼女の動作はテキパキしていて、既に心の整理もついているようだった。
「いえ、そうではありません」
明乃丞は、奥方を制し、師匠の言伝を包み隠さず話す。
「そうかい、総次郎(12代目の本名)さんは、そんなことを言っていたのかい」
「はい。それだけを言い残し、今は眠っておられます」
「わかったよ。明乃丞、大変かもしれないけど、あの人の言うとおりにやっとくれ」
「……ありがとうございます」
「あたしが、総次郎さんを見てるから、あんたは、今のうち少しでも稽古をしておいで」
「お心遣いありがとうございます。そのようにいたします」
「……私にお迎えが来たら、あっちで総次郎さんを叱んなくちゃね。あまり若い子に無茶させるんじゃないよって」
無理難題を抱えることになった明乃丞へのせめてもの気遣いか、師匠の妻は小声で軽口を叩いた。