58の幻夢
52.血涙
会社で仕事をしている最中の出来事だった。
疲れが溜まった僕は、画面から視線を離して上を向く。声にならない声をあげながら、首と肩を回す。
納期が近い。いつからぶっ続けで作業をしているだろうか。体が悲鳴を上げている。限界も近い、というかもう既に超えている。
「こんな時は『あれ』が効くんだよなぁ」
僕は貴重な時間を使って席を外し、給湯室の冷蔵庫からキンキンに冷えた目薬を取り出して戻ってくる。座席に着き、その目薬をデスクに置く。ちょうどこちらから見えるラベルには、いかにも効きそうな成分がこれでもかと列挙されている。それを見た両の瞼は、目薬の冷たい感覚に餓えているかのように、ヒクヒクと蠢いた。おもむろに目薬のふたを開け、天井を向く。左眼から右眼へ、目薬から液体が流れ落ちてくる……。
次の瞬間、両眼に激痛が走る。あまりの痛みに、思わず叫び声を上げてしまう。痛みをこらえて無理やり目を開く。
世界が赤い。どこまでも赤い。
僕はその光景が恐ろしくて、再び両の瞼を閉じた。
同僚のおかげでなんとか病院に担ぎ込まれた僕は、医師から目薬に異物が入っていたことを聞かされた。そして、僕の視力がもう戻ることはない、という事も。ということは、さっき見たあの血塗れの世界が、僕の最期に見た景色となってしまったのだ。ぐるぐる巻きにされた包帯の奥で、僕は異物を入れそうな人間を想像していた。先輩のあいつか、後輩のこいつか、はたまた取引先関係か。でも、いくら犯人の心当たりを探ろうと、それは推測でしかないし、もうこの両目が開くこともない。
このまま、僕は盲目の日々を、生き続けなければならないのだろうか。仮にあと五十年生きたとして、こんな死んだような風景を眺め続けることに耐えられるのだろうか。
僕は、犯人に復讐してやりたいと思った。いや、それだけじゃない。それこそ目の見える人々を、光を謳歌する人間全てを、地獄に叩き落したいと願ったんだ。
僕は、目薬工場の機械を洗浄する仕事に就くことにした。
目の見えない立場では難しい求人だったが、僕の熱意に打たれた面接官が、役員に強く推薦してくれたらしい。同僚は、目の見えない僕に懇切丁寧に仕事を教えてくれる。
あとは、隙をみて、目薬の原液に大量の異物を混入するだけだ。
……そんなことを考えながら、目薬の感覚を瞼の下の角膜で味わっていた。
ゆっくりと目を開ける。見慣れた景色がそこにあった。
世界はまた、帰ってきた。