58の幻夢
34.耳鳴りシューゲイザー
「う、うん……」
意識が戻る。そろそろと右目を開ける。頭を殴られているかのような痛み。体をねっとりと覆いつくす倦怠感。脳内をじりじり侵食し続ける耳鳴り。窓から刺す陽光に少しずつ右目を慣らしてから、フッと左目も開けた。
時計はアラームをけたたましく鳴らしながら、7時45分を示している。同じベッドに寝ていたはずのマキは、もういない。おそらく仕事に行ったのだろう。昨晩、あれほど二人で酒を飲んで、あれほど二人でヤリまくって、何度もイカせまくったのに、全く元気なこった。
呆れながら俺はベッドから出て、ふらふらの足取りで台所へと赴いた。隅に置かれているゴミ箱には、昨日飲み干した酒の空き缶がきちんと納まっている。マキのやつ、出勤前に片付けてったんだな。ほんと、俺にはできすぎた女だ。そう思いながら冷蔵庫の取っ手を引く。牛乳の紙パックを取ろうとして考え直し、その隣のお茶のペットボトルを手に取った。もうほとんど残っていないのを確認して、直接口をつけて飲み干す。心地よい冷たさが唇、口内、喉、腹中へと滑り落ちていく。空になったペットボトルを捨て、少しだけシャキッとして部屋に戻った。
「どうせバイト、午後からだしな」
未だ治らない頭痛や気だるさに負け、俺は再びベッドに横たわった。
目を瞑り、右腕で両眼を隠すようにして光を遮る。視界が失われたせいだろうか、頭の痛みがじわりと大きくなった。その頭痛とリンクして入り込んできた耳鳴りに、意識の大半が支配される。と、その耳鳴りの中から、「トクン、トクン」と別の何かが聞こえ出す。自身の心音だと気付くのに、そう時間はかからない。
鳴り響き続ける耳鳴りは、いつの間にか世界を覆い尽くす大轟音となっていた。その中にあっても、規則正しく聴こえ続ける心音のパルス。二つが絡み合い、溶け合って魅惑的な旋律が奏でられていく。他の全て、何もかもが追いやられ、永遠そのもののような旋律が聴覚を占めていく。
目眩、脱力。全てがゆがむ。溶ける。墜ちる――。
たゆたう感覚。暗転する視界。
そこは宇宙。
沈むと思えばどこまでも沈下。
浮かぶと思えばどこまでも浮遊。
少しずつ、ゆっくり。
記憶、曖昧に。失われる。
光。
近づいてく。
『ヒト』ではない。
『ナニか』。
全能?
回帰?
虚無?
吸い込まれる。
『ヒト』ではなく
『ナニか』に
なる……
なっていく……。
「……起きてっ! ほらっ! 起きろっ!」
いきなり刺し込まれるわめき声に、感覚がリセットされる。気づくとそこには、すっかり暗くなった部屋とマキのむくれ顔。
「もう、またバイトサボった。明日からちゃんとしてよ。あ、もうすぐ晩ご飯できるからね」
マキはそう言って台所へ戻る。
俺は、バイト先に謝罪の連絡をしようとしてスマホを手に取る。そのとき、さっきの耳鳴りと心音が織りなす旋律が、自分の耳に鮮明に蘇った。
マキには苦労かけるけど、「やっぱ俺、音楽で飯食ってくしかないな」と、改めて思った。