58の幻夢
35.わさび
「……と、いうわけで、櫻子さんを殺害する動機があり、なおかつ櫻子さんのお寿司に毒物を仕込む事ができたのは、薫子さんただ一人です。すなわち薫子さん、あなたが犯人です」
私の説明を受けて、その場にいる人々は一斉に薫子さんの方へ眼差しを向けた。
「かおちゃん、何でそんな事をしたんだ……」
信じたくないといった表情で、婚約者の宏明さんがポツリと呟く。
「薫子……。まさか、あなたがあんな惨い事を……」
母の撫子さんが力なくくず折れ、父の武彦さんが後ろから抱え上げる。
「ただ、お寿司にどうやって毒を仕込んだかまでは、この絶海の孤島ではちょっとわかりませんでしたが」
一同は、薫子さんを凝視したまま、水を打ったように静まり返っている。誰にとっても高嶺の花であるあの薫子さんが、誰からも見向きをされなかった可哀想な櫻子さんに醜い嫉妬の炎を燃やし、あまつさえこのような恐ろしい犯罪を企て実行に及ぶなんて、この場にいる誰もが夢にも思わなかっただろう。
幾許かの憐れみを胸に抱きながら、私も薫子さんを見つめる。ソファーに腰を掛け、ハンカチを両手で握り締めたまま、俯いてすすり泣く彼女は、人を殺めた後でもなお美しかった。できれば自首をしてもらいたい。聡明な彼女なら、立派に更生してやり直す事ができるはずだ。
だが次の瞬間、薫子さんは素早く部屋の隅へと駆け出し、冷蔵庫のドアを開けた。そしてチューブに入ったわさびを掴んでふたを回し開け、一気に握りつぶして中身を口に含む。
しまった! 慌てて走り寄り、ふらついた薫子さんを抱きかかえた瞬間、彼女の口からわさびの緑色混じりの血が大量に溢れ出す。
『うちでは、わさびを召し上がるのは櫻子様だけなんですよ』
今更、調査のときに聞いた家政婦さんの言葉が脳裏をよぎる。そうか、寿司に直接毒物を仕込むのではなく、わさびに……。
薫子さんは、もうすでに私の腕の中でこと切れていた。ただでさえ苦手であっただろうわさびを大量に口に含んだままの死に顔は、大変申し訳ないけれどもどこかひどく滑稽で、生前の美しさがあっという間にどこかへ消し飛んでしまったかのようだった。……きっと、頭や鼻がツ~ンってなっている最中に意識が遠のいていったんだろう。でも、そんな死に方をするのは、かなり辛(から)いし辛(つら)いだろうから、ちょっと、いや、かなり嫌だなあ。私は、彼女の最期に同情を禁じ得ないまま、亡骸を床に安置した。