58の幻夢
43.遭遇
困った事になった。
噂には聞いていたが、こんな悲劇が本当に私の身に降りかかってこようとは。やるせなさを胸に抱き、玄関のドアすらも開けっ放しでキッチンの一部分を凝視する。
視線の先には、黒くて素早いあの害虫。
事の起こりは単純だった。家に帰ってきて玄関を開けたら、見慣れたはずの視界に違和感。それだけ。
それから数分間、私と違和感との睨みあいは続いていた。相手もこちらの存在に気づいているのか、キッチンの片隅で身じろぎもしない。私が手に提げた夕食のお弁当は、もう冷めかけている。
まずは、だ。迎撃体勢を取ろう、そう考えた。標的に飛ばれでもしたら、それこそ目も当てられない。私は標的を視界に入れつつ、玄関のドアをそっと閉め、靴を脱ぎ、カバンと弁当をテーブルに置く。そして、これまた標的から目を離さぬまま、洗面所の殺虫剤を手に取った。
ここまでくれば、殺虫剤が届く距離まで間合いを詰めればいい。標的へと少しずつにじり寄りながら、私はそう考えた。攻撃した際の標的の動き次第では面倒な事になるかもしれないが、標的殺害のミッションはおそらく達成できるはず。まあ、その後に死体処理なんて面倒な作業も控えているが。
そんな事を考えていたら、気が緩んでいた。こちらの気の緩みを察知したのか、標的が走り出す。出遅れたが、私はその行動にすぐ気がつき、標的の進路と思われる冷蔵庫に殺虫剤を噴きつける。標的は、冷蔵庫という氷山の中腹で殺虫剤の雨に見舞われ、次の刹那、するんと滑落していった。
床上で仰向けに横たわる標的に、私は執拗に致命の殺虫剤を噴射する。床は殺虫剤でびちゃびちゃになり、その中央で黒い悪魔が死の舞踏を繰り広げる。醜悪な節足の動きが次第に緩慢となり、その断末魔が終焉を招き寄せた。
戦いは終わった。
だがこの時私は、開け放しの玄関から入り込んだであろう、足が百本あるあいつと数分後に遭遇するなどとは夢にも思っていなかったのだった。