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58の幻夢

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44.犬も食わない



 派手に夫婦喧嘩をした。

 ありったけの皿を掴んでは投げる嫁。少年野球のバットで打ち返す俺。号泣しながら逃げ惑う娘と息子。ケガが無かったのは奇跡と言ってよかった。
 こういう時追い出されるのは、父である俺と相場が決まっている。今回も例外でなく、俺は家を追い出されて居酒屋で飲んだくれていた。
 普段なら、子供が寝た頃にLINEで嫁に謝って鍵を開けてもらうのだが、今回はどうしても腹の虫が収まらない。なんとしても嫁に一泡吹かせたかった。
「そうだ、しばらく失踪してやろう」
そう決意して、サワーのレモンを絞る手に力を込めた。


 寝台列車などを乗り継ぎ、適当な駅に降り立つ。まずは腹が減った。これじゃ戦はできんとばかりに手近な定食屋に入り込む。
 一軒家の一階を店舗にしたその定食屋は、老夫婦が切り盛りするこぢんまりした店だった。俺は、定食の焼サンマを食べながら考える。もうあまり金が無い。だが、口座は嫁が抑えているし、友人に金を借りたりして後で揉めたくない。ということは、働いて金を得なければ。
 でも、そんな上手い具合に働き口があるだろうか。そう思いながら周囲を見回す。昔ながらの温かい雰囲気の定食屋。どこかで見たような面影の、笑みを絶やさない老夫婦。こんなアットホームな場所で働いてみてえなぁ。

 会計の際、俺はその場に土下座して老夫婦に懇願した。
「お願いです。何でもします。しばらくここで働かせてください!」
しばしの困惑の後、老夫婦は何も言わずに俺を受け入れてくれた。俺は皿洗い、ごみ捨て、清掃などを教わり、その日から定食屋の仕事を手伝った。老夫婦は「良ければ、二階の奥の部屋使いな」と、住む場所も提供してくれた。それに彼らは、見ず知らずの俺に嫌な顔一つせず、いつも笑顔で心安く接してくれる。俺はもう、すっかりここでの居心地が良くなっていた。


 数ヶ月経ち、そろそろ前の生活が恋しくなってきたころ、嫁と子供たちが突然現れた。娘と息子は、老夫婦にじゃれつき甘えている。
「あなた、もういいでしょ」
驚く俺に、嫁はこう切り出した後、さらに驚くべきことを打ち明けた。

「まさか、喧嘩の翌日に私の実家に逃げ込むなんて思わなかった。
 私も、お父さんとお母さんから電話で聞いて反省したわ。
 でも、うちの実家、知らなかったはずなのにどうやって調べたの?」

 俺は思わず、老夫婦の方を振り返る。どうりでどこかで見たはずの老夫婦は、いつもの笑顔で俺達4人を眺めていた。


作品名:58の幻夢 作家名:六色塔