58の幻夢
45.最期の人
父が死んだ。私は父の遺体を荼毘に付した後、くたびれきった体を居間のソファに横たえる。
父が亡くなったことで、とある重要なモノもこの世から失われた。それは『人類』。父と私は、この世界で最後の男と女だった。最後の男性である父が亡くなったということは、取りも直さず『人類』の滅亡を意味することになる。
もっとも、私はまだ当面生きていくつもりなので、完全に滅亡するのはもう少し先になるだろう。その間に、ある種の昆虫のような単為生殖が私にもできるようになれば、事情は変わるかもしれない。でも、仮にそうなったとして、生まれてくるのは果たして『人類』なのだろうか。マリア様も処女で懐胎したというけれど、その結果生まれたイエス様は神様の子だし。……まあ、こんなことは実際にそうなったときに考えよう。
ずっと、思い続けていたことがある。果たして私は、父の子を宿すべきだったのだろうか。
父の子を産みさえしていれば、気が遠くなるほど連綿と続いてきたこの人類の営みを、私の手で断ち切るようなことはなかったはず。だが、それほどまでに長く受け継がれてきたリレーのバトンを、どうしても私は次の世代に渡そうとはしなかった。もし、死後の世界というものがあるなら、私は全人類から憎まれるかもしれない。でも、例え全人類から恨まれ非難されたとしても、絶対に私は子孫を残したくなかったのだ。
私は、父のことが大嫌いだった。骨の髄まで心底憎みきっていた。たとえ『人類』と刺し違えようとも、私はあの男に体を許したいとは思わなかった。
特に、あの男の臭い。不潔ですえたような、下卑たあの臭いが本当に忌まわしかった。共に暮らすのも苦痛だった。お風呂にはちゃんと入っていたようだが、それでも悪臭は家中に振りまかれていた。
そういえば、近親相姦を避ける為、自分に近い遺伝子ほど不快に思うようにできているって話を聞いた事がある。その昔、「洗濯物はパパと別にして」と言い出す娘がしばしばいたのはこれが理由だとか。
もしかしたら私の遺伝子も、私に父の臭いを不快に思わせていたのかもしれない。この人類の存続がかかった土壇場で、皮肉な方に作用してしまったものだとつくづく思う。
だが、全てはもう過ぎたことだ。
これから私は最期の人として、残りの人生、文字通り『人類』の最期を精一杯謳歌しようと思う。そう決意してソファから起き上がり、まだ微かに父の臭いが残る家に火を放ち、立ち去った。