哀れな中年の愚かな夢
「この角張った部分がダメなの」
「それって、何かのトラウマじゃないのかい?」
「どうだか」
「しかし、レモンちゃんも面白いよね」
「フフン、どうしてよ」
「どうしてって、面白いじゃない」
「フ―ンだ、どうせ」
レモンは、少し拗ねたような顔をした。
「しかし、今日は楽しかったね」
レモンは、今日一日が本当に楽しかったことに満足していた。
レモンの街に帰る道中も前回と違い、機嫌が悪くなることはなかった。
「今度はさぁ、どこか遠くに二泊三日あたりで、旅行したぃネ」
と運転しながらノブナカが言うと、
「そうね、軽井沢なんかいいかもね」
「じゃあさ、今度本当に行けたら行こうよ。絶対泊まる部屋は別々にするから」
ノブナカは、先手を打ったつもりである。
「そうね、本当に行けたらステキよね」
レモンも、薄暮の瀬戸内海を見ながら、夢見る表情で言った。レモンは、別れるとき、きっちりと一万を請求した。
毎回のデートで食事代やガソリン代を含むと三万ぐらいの金が要るため、資金繰りに苦しくなったノブナカは、妻に内緒で共済組合から生活緊急資金を百万借りたのである。
十
レモンからの電話が、夕方職場から自宅に帰りつく直前ノブナカの携帯に鳴った。レモンからの電話はいつもワン切りである。彼女も現在プータローであることから、経費の嵩むことはしない。だから電話もノブナカからかける一方で、レモンの用事があるときは、ワン切りで知らせるのである。
「どうしたの、レモンちゃん」
「あのさー、キミに相談があるンだけれど、いいかな?」
「なんなの、相談って?」
「実は今から、K市の男の今の彼女の家を見に行きたいンだけど、付き合ってくれない?」
「今から」
ノブナカは、今夜の妻のスケジュールを頭の中でめぐらした。今晩は、週末だから宗教団体の婦人部の幹部会が九時から入っているはずだと思った。このまま家に帰らず「今晩残業になって、その後一杯になるから、同僚の家に止めてもらうよ」と妻に言った。妻は、宗教団体の組織拡大のことで頭が一杯で、ノブナカのウソをあっさりと見過ごしてしまう。今までも妻の大雑把な性格のために随分と助けられた。
しかし、仕事や借金でストレスを抱え、現実逃避の為ツーショット・ダイヤルで知り合った娘に癒しを求めている夫の窮状を妻は知る由もなく、夫婦間の溝は取り返しのつかないほど深いものになっていた。妻にとっては、宗教団体での活動が生きる全てになっていた。
「ゴメンネ、こんなに夜遅くに呼び出しちゃって」
レモンの住む街に着いたのは、十時前だった。
大洲から高速に乗り、伊予のインターで降りて、しばらく国道を百キロ超で走っている時、突然稲妻のようなフラッシュを浴びた。その時は、これがオービスで、スピードオーバーでひっかかったとは知らずにいた。
「どうして急に、元カレの彼女の家に行こうなんて思ったの?」
ノブナカは、ティーシャツにミニスカートの軽装で助手席に座っているレモンに言った。
「それがね、ワタシ興信所にアイツの調査を依頼してたのネ。そしたら、今付き合ってる彼女のことが判ったの。その女ね、ビデオショップでバイトしてて、K市の西の○○ってとこに住んでることも判ったの。だから、一度その女の家を見たいと思って」
「レモンちゃんが、どうしてそこまで、その元カレのことを執念深く思うかが判らないな」
「いいのよ、キミに判らなくても。この気持ちは誰にもわかりっこないンだから」
「そんなもんかね」
「そりゃそうよ。ワタシはあの男のことだけは、絶対許さないンだから」
M市からK市に向う三十三号線は、暗い山道を超える道で、不気味なほど静かだった。
「しかし、レモンちゃんも無用心だね。僕が、いつ狼に変わるかもしれないというのに」
「そーんなことないよ。キミは絶対そんなことしないもの」
「それはどうかな、殺人者の心理だって、最初から人を殺そうと思って殺すやつなんてそうはいないはずだよ」
こう言った後、レモンが少し身を堅くしたのがわかり、それ以上言うことを止めた。
十一
女の家は、すぐに判った。レモンは、女の家が案外古くみすぼらしかったことに満足したようで、
「ふん、どうせ貧乏人ジャン」
と吐き捨てるように言った。
「じゃあ、もういいかい。満足した?」
ノブナカが聞くと、レモンは、
「キミ、もう一回表札を見てきてくれない。○○って書いてあるか」
「いいよ、別に、しかし、こんな夜中に警察にでも見つかったら不審者と思われて尋問を受けかねないね」
ノブナカは、車から降りて、再度元カレの彼女の家の表札を確認しにいった。○○と確認し終えた瞬間、眠りから覚めた番犬が、大声で吠えた。ノブナカは、心臓が飛び出るくらいに驚き、慌てて車に引き返し、急発進した。
「ゴメンネ、本当に恐い思いさせて」
レモンが笑いを押し殺しながらノブナカに謝った。
「何がおかしいンだよ、こっちは、心臓が飛び出るくらい驚いて、これでオレの市役所人生も終わりかと思ったのに」
「ゴメン、笑うつもりはなかったンだけれど、キミの驚いた顔とその様子がおかしくって」
「冗談じゃないよ、まったく」
ノブナカは、まだ心臓がドキドキしている。今血圧を計れば、おそらく百八十以上はあるかもしれない、と思った。
「本当に、レモンちゃんと付き合うと、寿命が十年ほど縮んでしまうよ」
少し落ち着いたノブナカも、苦笑した。
M市に帰る道中、レモンは途中から眠ってしまった。
ノブナカは、眠気覚ましにと思い、「ELT」のベストアルバムのCDをかけた。
CDもレモンが好きなものを買い集めた。「ELT」「河村隆一」「グレイ」「ミスチル」等。
「河村隆一なんて、なんか気持ち悪くない?」
ノブナカは、河村隆一の歌い方が嫌いだった。
「あの、流し目で歌うとこなんかが、いいじゃない。気持ちワル、イイのよ」
レモンは、俳優では田村正和の大ファンで、いつも「マァ様」「マァ様」と言って、田村正和のことを話した。
隣で、ほとんど寝息を立てずに眠るレモンの横顔が愛らしい。
ノブナカは、このままレモンをモーテルに連れ込みたい衝動に刈られるが、以前、レモンが強引に男にモーテルに連れ込まれたとき、モーテルから一人、脱出した話しを聞かされていたから、強引な手法は絶対まずいと思っていた。
しばらく走るうち、ノブナカにも睡魔が襲った。
ダム湖の近くの駐車場に車を止め、しばらく仮眠した。
ノブナカが目を醒ましたとき、まだレモンは静かに眠っていた。
ノブナカは、レモンのミニスカートに視線がいく。どうかするとその内部を覗き込みたい衝動に駆られる。
それにしてもなんと可愛いのか。まるで天使のようだ、とノブナカは思う。
朝方、ファミレスでバイキングのモーニングを食べた。
レモンは、相変わらず食欲旺盛であったが、
「この店の食材は、新鮮じゃないわね」
と料理にケチをつけた。
ノブナカにしてみたら、一回りも年の離れた娘と、深夜ドライブして、何もしないで夜を明かし、明け方モーニングで朝食を取るなんてことが、信じ難いことであるが、何やら新鮮でもあった。
作品名:哀れな中年の愚かな夢 作家名:忍冬