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妖器

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本来なら疾うに到着している筈なのに、まだ来ないのである。しきりに電話連絡をしているのに誰も出ない様なのだ。
 実はその頃事務局は大騒ぎになっていたのだ。
 警察からマカロフの乗ったタクシーが大事故を起こしたと連絡が入ったのだ。
 マカロフは即死であった。
 詩織の退場した舞台では、急遽マカロフの死を悼んでロシア国歌が演奏されると言う異例の幕切れとなった。
 結果は一位が森山詩織、二位が大沢麗子、三位はエリザベート・カッセル。四位と五位は該当者なしとなった。
 三人は世界中から詰めかけた記者に囲まれた。
 勿論あの東日テレビの記者宮沢淳も来ていた。
 「優勝のご感想は?」
 月並みな質問である。
 それよりも詩織には気になった事があった。
 マカロフが持っていたのがストラディバリだったからだ。
 「勿論私達日本人が一位二位になった事は信じられない程嬉しいんですが、実力を見せられずに亡くなったマカロフさんは本当にお気の毒です。さぞ無念だったでしょうね」
 翌日の各紙は日本人が一位二位を占めた事を大きく報道した。加えて詩織の発言がマカロフの死を悼む言葉であった事に触れて、日本人の奥ゆかしさを示すものとして称賛されたのである。
 このコンクールでの優勝者は、特別にパガニーニ自身が愛用したヴァイオリンで演奏する機会が与えられる。
 詩織にも当然その機会が与えられ記念演奏をする事になった。
 彼女には心配な事があった。
 (もし楽器がストラディバリュウスだったらアンナはどう思うだろうか?)
 然し、それは杞憂に過ぎなかった。
 パガニーニの愛器は、デル・ジェス・ガルネリウス・カノンと銘打たれた楽器だったのだ。
 それは見た目には左程保存状態が良いとは言えなかった。
 おそらく自由奔放に弾きまくった所為か、ニスもところどころ剥げたままになっている。
手に取った詩織はさすがに手が震えた。
 まさか一位になるとは思わなかったが、万一に備えて二十四のカプリースは全曲弾けるようには準備していたが、何しろ一時間半もかかるのだ。
 然し、楽器が弾け弾けとけしかけている様に思えた。
 (よし。やってやる)
 無伴奏だからステージに立つのはただ一人である。
 詩織はパガニーニに憑かれたように弾きまくった。
 弾き終わった一瞬、ホールは静まり返り次に拍手の嵐に沸き返った。
 観衆は貪欲である。何とかもう一曲弾かせたいのだ。五回もアンコールに引き出されはしたが、もう弾く事は出来なかった。
 控室には遠藤園子とニコロが待っていた。
 「凄い事をやってのけたね。これからも友達でいてね。何だか遠い人になってしまいそう」
 「勿論ですよ。一位二位を独占出来たのは半分は遠藤さんのお陰ですもの」
 「いやいや、全部お二人の実力です。さあこれから忙しくなりますよ。折角の機会だから明日はジェノヴァを案内させてね」
 園子とニコロは二人をホテルまで送り届けて帰って行った。
 翌日園子は一人で二人を迎えに来た。
 「今日はニコロは来ないの?」
  「それなんだけど、彼はどうしても従いて来るってうるさいの。イタリアの男が女を口説くのは挨拶みたいなものだけど、ニコロはちょっと違うみたいよ。私たちが展示会で彼に会ったでしょう。アンナの話も原因だと思うけど、彼は詩織さんに一目惚れしたらしいのよ。
俄かに日本語の勉強を始めるなんて訝しいじゃない。どうせ叶わぬ恋なのに、これ以上深みに入ったら可哀そうだし、詩織さんも困るでしょう?」
 「やっばりそうだったんですかぁ。うすうすは感じてたんですが、まさか本気とは・・・。でも、嫌いじゃないですよ。彼には誰にも負けないマエストロになって欲しいですねぇ。クレモナにヴァイオリン作りの男友達が居るなんて素敵だと思います」
 「そうよね。友達になってやってくれる?私からも説得するから・・・」
 ヴァイオリン一筋に生きて来た詩織には、恋愛など無縁だったが、ニコロが居ないのは何となく寂しい。ニコロの楽器にはアンナと共に愛着があったし、ニコロに愛されていると言う感覚はもんざらでは無かった。
 ジェノヴァはパガニーニ生誕の地である。
 折角来たのだからと園子は案内役を買って出たのであった。
 ジェノヴァには、世遺産に指定されている古い建造物が今も尚美しい当時の面影を保っている。
 兎に角、何処を見ても石や煉瓦の建物が多くて歴史を感じさせる。
 パガニーニの生家を訪ねようと思ったが、残念にもそれは残ってはいなかった。その代りトゥルシュ宮という宮殿に、彼の遺品が残されていた。
 そこにはガラスケースの中に彼が愛用した楽器、ガルネリのカノンが展示されている。
 「詩織さんはこれを弾いたのねぇ」
 「さすがに手が震えました。当時は顎当ても肩当てもなかったんですねぇ。そんな状態であんな難曲を弾いたなんて、悪魔と言われたのも当然ですね」
 「でも、今では弾ける人もかなり居ますからパガニーニもびっくりするでしょう」
 ジェノヴァの駅で二人は遠藤園子と別れ帰国の途に就いた。
 羽田空港には大勢の報道陣が詰めかけていた。
 パガニーニ国際ヴァイオリンコンクールには、過去には日本人も何人か入賞しているが、一位二位を独占した事は確かに快挙であった。
 月並みな質問にうんざりしながら、麗子も詩織も逃げるように自宅へ帰った。
 詩織は、あらゆる取材を断って部屋に閉じこもった切り考え込んでしまった。
 (エフゲニー・マカロフの事故死は偶然だったのか?)
 詩織はケースからアンナのヴァイオリン取り出して、しげしげと眺めた。
 その時、彼女の背筋に戦慄が走った。
 楓の木目の美しい裏板に、不敵な笑みを浮かべたアンナの呪いの顔が浮んだのを確かに見たのである。
 (あなたは私の手を借りて一人の天才を殺したのよ)
 恐怖に襲われて、詩織は思わずヴァイオリンを投げ出した。
 ヴァイオリンは転がりながらからからと笑った。
 

 第七章 アンナの涙

 詩織も麗子は報告旁柳沼弦一郎を訪ねた。
 勿論彼も大喜びである。
 「二人ともよくやった。私も教え甲斐があったな。実に嬉しい。君たちはもう立派な演奏家だから、いろんなオーケストラや団体からオファーが来る。そんな事に一々対応するのは無理だからどこかに任せた方がいいよ。
 銀座に斎藤音楽事務所と言うのがある。当然君たちの事はよく知っている筈だから、行けばすぐ登録される筈だからね」
 二人はクラシック演奏家のマネージメントを引き受ける音楽事務所に所属する事になった。
 然し、詩織には心配がある。これからも更に上のコンクールに挑戦する事になるだろう。もし、あの時の悲劇が再度起こったら・・・
 (何とかしなければ・・・)
 詩織はアンナの楽器とニコロ・マーティーの楽器を並べてみた。
 (ニコロ。どうすればいい?)
 その時、詩織の頭に不意に一つの考えが浮んだ。
 彼女はあの鑑定士の鈴木総一郎の事務所を訪れた。
 「先生、あの文書の最後の部分、覚えていらっしゃいますか?」
 「確か永久にストラディバリを呪うとか・・・」
作品名:妖器 作家名:蛙川諄一