妖器
「そうですそうです。そんな馬鹿なと思われるでしょうけど、先生も憶えていらっしゃるでしょう。学生音楽コンクールで大沢麗子さんの指が麻痺して弾けなくなった事」
「そうそう、そんな話でしたね」
「あれからクレモナのヴァイオリンコンクールにも出たんですが、ストラディバリで臨んだ対抗馬が二人も同じようなトラブルを起こしたんです。
それにですよ、先生もご存知かもしれませんが、あのパガニーニのコンクールでは、一位間違いなしと言われていたロシアの天才ヴァイオリニスト、エフゲニー・マカロフが不自然な自動車事故で即死したんです。彼の愛用していた楽器もストラディバリだったんです。 これって、偶然で済まされると思われますか?」
「本当ですか?」
鈴木総一郎も絶句してしまった。
「ふーん。それで、何か私に頼みたい事でも・」
「実は、あの羊皮紙の本物を主要な世界の無鑑定士に認めさせてほしいのです。先生の人脈で何とかなりませんか」
「それはお安い御用です。あの鑑定に当たってはイタリ―、ドイツ、フランスの仲間にも見せてみんな本物と認めています。鑑定書は出来ますがそれでいい訳じゃあないでしょう」
「ええ、そのうえでアンナ・マーティーのラベルを作って貼ってやりたいのです。つまり彼女を日の当たるところへ出して上げたいのですよ。出来るでしょうか?」
「お安い御用です」
かくして今まで無銘のヴァイオリンは『アンナ・マーティー作 一七?? クレモナ』のラベルが貼られて生まれ変わったのである。
詩織は権威のあるザザビーズオークションに出品して実際の価値を再確認しようと考えたのである。
予備審査は簡単にパスした。
入札に先立って、品物は参加者の目に触れる様展示される。
鑑定書には最後の呪いの言葉だけは削除され、ストラディバリ自身がアンナの作品を自分以上のものであると認めた事実を証明した文書になっている。
その上で、これによってストラディバリの価値が変わる事はないと言う配慮もなされていたのである。
会場には世界の富豪たちが集まり、異様な熱気に包まれている。
アンナのヴァイオリンがオークションの台に置かれた。
詩織は我が子が競りかけられる様な胸苦しさを覚えながら見ていた。
今まで現実に落札された最高のヴァイオリンは、ヴュータンの愛称があるガルネリで十六億円、レディブランツと言われるストラディバリで十二億円である。
アンナ・マーティーは・・・
いきなり十億円が提示され、それが次々つり上がって行く。
十二億円、十五億円、十八億円、遂に二十億円まで来た。
提示したのはカーネギー財団である。
暫く静寂が続き、制限時間ギリギリに二十二億円を提示して落札したのは日本弦楽器財団であった。
実は、この落札は詩織と財団で打ち合わせ済みだったのである。どんなに高くなっても詩織が手にする代金は日本弦楽器財団へ寄付する事になっていたのだ。
手数料はかかったものの、これでアンナ・マーティーは晴れて世界的に価値が認められたのである。
十パーセントの手数料を引かれても、詩織の得た金額は二十億円である。
それはそのまま日本弦楽器財団へ寄付され、その代り詩織は生涯貸与される事になった。
一件落着して詩織はほっとした。
詩織はヴァイオリンを取り出した。
f字孔から覗くと、アンナ・マーティーのラベルが誇らしげに見える。
彼女は思わず楽器を抱きしめた。
(アンナはどう思っているのだろう)
美しい楓の木目のある裏板を詩織はじっと眺めた。
そこには、あの呪いの表情ではなく、嬉し泣きしているアンナの顏が浮んだ。
消えた後には数滴の涙が残されていた。
完
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