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妖器

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 セミファイナルではブラームスのヴァイオリンソナタ一番から三番までの内一曲とパガニーニの二十四のカプリースから、第一予選で弾いた物以外の二曲で競われる。
 パガニーニのカプリースは、どれをとっても人間業と思えぬ程の超絶技巧が散りばめられている。
 こんな難曲をいとも簡単に弾いたバガニーニが悪魔と言われた事も頷ける。
 パガニーニコンクールに勝ち残るには出場者は悪魔にならなければならないのだ。
 フアイナルは協奏曲で、ベートーヴェン、ブラームス、チャイコフスキー、シベリウスの中から一曲と、パガニーニの一番か二番を弾く事になる。
 詩織は手に入れたニコロ・マーティーのヴァイオリンを傍らに置いて、アンナの楽器で猛練習を続けていた。
 ニコロの楽器を置いていると何故か心が落ち着いたのである。
 年が明けて三月二日の午前十時過ぎ、詩織と麗子はジェノヴァの駅に降り立った。
 そこには遠山園子と一緒にニコロ・マーティーも待っていた。
 「わざわざジェノヴァまで来て下さって有難う御座います」
 「いえいえ、こちらの方こそ・・・お二人がエントリーされたと知って本当に喜んだんですよ。私もニコロも・・・」
 詩織は覚えたてのイタリア語でニコロに挨拶してみた。
 「ボンジョルノ、ジェンティーレ、ニコロ」
 すると、何とニコロ日本語で答えたのである。
 「コンニチワ。シオリサン、レイコサン」
 「モルテ、グラッチェ」
 「ドウイタマシテ」
 ニコロはたどたどしいけれど日本語を話せるようになっていた。
 「ニコロ。『シ』が抜けてるよ」
 園子に指摘されて、彼ははにかみ乍ら言い直した。
 「スミマセン。ドウイタシマシテ」
 「ニコロはああ見えてもまだ三十二歳の独身よ。何故だかあれから必死になって日本語を勉強してるのよ」
 園子は笑いながら片目を瞑って見せた。
 「兎に角、先にチェックインしましょう」
 ブリストル・パレスホテルはコンクールの会場カルロ・フェリーチェ劇場に最も近い。
 おそらく明日の出場者や関係者も多く宿泊しているに違いない。
 二人は、部屋へ荷物を置くと園子とニコロに昼食をご馳走しようと相談していたのに、どうしてもニコロがご馳走すると言うのでそれに甘える事にした。
 「このコンクールはとても厳しいのよ。エントリーしている人達を教えている音楽学校の教授たちは審査員にはなれないし、勿論クレモナの時のような地元優先もないの。審査員は多くのコンクールの優勝経験者や耳の肥えた評論家たちだからね。
 それと、前評判では、ロシアのエフゲニー・マカロフが優勝するだろうと言われてるの」
 彼はモスクワ音楽院をトップで卒業し、百年に一度と言われる天才的ヴァイオリニストで、国家からストラディバリの生涯貸与を許されている。それに美男で、女性のファンも多い。
ストラディバリと聞いただけで詩織は何か起こりそうな予感がした。
 「貴重なお話、有難う御座います。今日はゆっくり英気を養って明日に備えます」
 「そうねぇ。私たちは観客席で聴かせて貰いますね」
 翌日は第一予選である。
 エントリーしたのは三十二名だったが、実際に演奏したのは三十名、そして一次予選で残ったのは十六名になった。
 ロビーに貼りだされた中には、勿論エフゲニー・マカロフも詩織たち二人の名前もある。
 「二人とも、とってもいい演奏だったよ」
 「ケベッロ!」
 振り向くと遠藤園子とニコロが嬉しそうに立っていた。
 「あなた達も拍手が多かったでしょう。マカロフもさすがに光彩を放っていたけど、審査員も拍手は気になるからね。
 次は愈々セミファイナルである。
 ブラームスのヴァイオリンソナタはピアノと合わせるリハーサルが行われる。
 二人とも『雨の歌』と呼ばれている第一番を選んだ。
 ピアノを受け持つのも一流のピアニストだから、息が合わないとかなり損をする。
 詩織も麗子もリハーサルが終わった時ピアニストから握手を求められた。
 セミファイナルに残ったのは、予想通りロシアのエフゲニー・マカロフ、フランスのエリザベート・カッセル、中国の宋麗華、それに大沢麗子、森山詩織の五人となった。
 ロビーには園子もニコロも待ち構えていた。
 「良かった良かった。ここまで来れば入賞は間違いなしね。二位でも三位でも世界に認められるヴァイオリニストなんだからね」
 「遠山さんたちが居てくれるだけでファイトが湧きます」
 「コンチェルトは何を弾くの?」
 「私はシベリウスとパガニーニは二番を弾きます」
 「大沢さんは?」
 「ブラームスとパガニーニは一番」
 「そう、頑張ってね」
 オーケストラはカルロ・フェリーチェ劇場専属のオーケストラである。
 二人とも、リハーサルでは指揮者からは何の注文もなく、一回で終わった。
 団員からも好感が持たれたと肌で感じたのだ。
 出場者は先ず専用の控室で待機し、順番に廊下を通って舞台の袖の楽屋に向かう。
 楽屋には次の出場者が控えて、前の奏者の演奏を聴きながら待つことになっている。
 この日のトッブは中国の宋麗華、二番目はフランスのエリザベート・カッセル。その後大沢麗子、森山詩織と続き、最後にエフゲニー・マカロフが演奏する事になっていた。
 控室から出て行く顔はみんな緊張の色を隠せないが、戻って来た時には様々である。
満足の出来た時はほっとして笑顔を見せるが、不本意な演奏だと感じたら悔しそうに顔を曇らせる。
 宋麗華はトップの重圧を感じたのか、浮かぬ顔で戻って来たが、エリザベートは上手く弾けたのか付き人と抱き合って微笑を浮かべた。
 詩織はエリザベートと入れ違いに楽屋へ向かった。
 麗子は既にステージに立ち、ブラームスのコンチェルトが始まっていた。
 楽屋のドアーを通して音が聞こえて来る。
 パガニーニのコンチェルトが終わった途端盛大な拍手が聞こえた。
 彼女が楽屋のドアーを開けると拍手の音がワーンと流れ込み、麗子は二度もアンコールに応えなければならなかった。
 麗子はガッポーズで詩織とハイタッチを交わして控室に戻って行った。
 開け放たれたドアーの向こうから名前がコールされ、詩織は舞台に進み出た。
 会場を見回すと、なんと審査員席のすぐ後ろの席に遠藤園子とニコロが座っている。
 深々とお辞儀をした後、指揮者と目で合図を交換すると、静かにシベリウスの哀愁を帯びたメロディーが流れ始める。
 詩織は何となくニコロの熱い視線を感じながら弾き始めた。
 アンナのヴァイオリンは見事に歌う。
 パガニーニの協奏曲第二番の終楽章は、リストがピアノに編曲したラ・カンパネラの方が有名だが、ピアノよりもヴァイオリンの原曲の方が極めて難度が高い。
 詩織の演奏はオーケストラを圧倒するようにホールの隅々まで響き渡った。
 オーケストラの演奏が終わるや否や会場は総立ちになり「ブラボー、ブラボー」の歓声で沸き返った。
 詩織は三度もアンコールされたのである。
 楽屋には最終奏者のマカロフが控えている筈なのに、居なかった。
 その頃控室では、マカロフの付き人がいまだに本人が到着しない状況に気をもんでいた。
作品名:妖器 作家名:蛙川諄一