妖器
「折角ですから、こちらの工房で作られている楽器を見たいと思っています。その後はミラノへ行ってそこから日本へ飛ぶつもりです」
「だったらそれまで通訳して上げるね」
「有難う御座います。でも本当に宜しいのですか?」
「私だって遠く日本から来られたお二人にお目にかかるのを楽しみにしていたんですよ。それはそうとお二人の先生は?」
「柳沼弦一郎と言う方ですが・・・」
「ああ、柳沼先生ね。以前こちらへ来られて聴いて頂いた事があります。今日の事はレポートにして託しますから先生に見て貰うと良いわね」
クレモナ音楽祭と共催される展示会は、クレモナヴァイオリン博物館の隣に特設された建物で開催されている。
クレモナには現在百を超す工房があるが、出展出来るのは選ばれた三十の工房だけである。
クレモナで作られた楽器でも、そのすべてが良いとは限らない。さして良くもない楽器は、聖地クレモナの名を汚す虞(おそれ)があるから出展が許されない。
展示会場は案内所を別として三十のブースに分かれている。それぞれのブースには製作者の名前が表示され、作った楽器を並べて製作者本人が客と応対している。
おそらく演奏者ではなく、楽器業者も契約して帰るのかも知れない。
クレモナと言うブランドだけで、新しく作られた楽器でも百万円程で売れるからである。
三人は表示してある名前を見ながらゆっくり歩を進めていたが、あるブースの前で立ち止まった。
ニコロ・マーティー
一瞬ニコロ・アマティーかと思ったからである。
勿論ヴァイオリン作りの元祖が生きて居る筈がない。然し詩織はふと思い出した。
アンナは確かアンナ・マーティーだった。そして父親はアントニオ・マーティーだ。
三人はそのブースに入ってみた。
眼鏡の奥の目が優しいニコロは三人を見て、先ず詩織に何か話しかけながら握手を求めて来た。
「彼は『貴女はコンクールで優勝した森山詩織さんですね。お目にかかれて嬉しいです』と言ってるの」
遠藤園子は早速通訳を始めた。
彼女が何か話すとニコロは今度は麗子にも握手を求めて来た。
「遠藤さん。ちょっと聞いてみて貰えませんか。アントニオ・マーティーをご存知か如何か?」
園子とニコロは頷いたり驚いたりしながらかなり長い間話し込んでいた。
「何でも三代前のご先祖がこのアントニオの弟だったらしいですよ。それとその方の娘さんが作ったヴァイオリンを預かったのに、酒に溺れて貧乏した時に売ってしまったらしいとも・・・」
「えっ、本当ですか。その娘さんアンナと言うんですが、彼女の作ったヴァイオリンがこれです」
今度はニコロが飛び上がらんばかりに驚いた。
詩織が取り出して見せたヴァイオリンを感慨深げにしげしげと眺めた。そして園子に何事か話しかけた。
「彼は『ラベルもないし、如何してアンナの楽器と分かったのか』と訊いています」
「あぁ、今ここには無いのですが、文書が付いていたんです。それによると彼女はストラディバリの愛人だったのに捨てられたそうなんです」
「驚いた。そんな話は聞いた事ない」
「おそらく、そんな事実はストラディバリの手で封印されてしまったのでしょう」
園子は又暫くニコロと話し合っていた。
「ニコロはとても喜んでます。アンナの楽器を売り飛ばした先祖の息子は大変怒って、彼女への贖罪のつもりでヴァイオリン作りの道に入ったそうです。ニコロもそれを継いでいるんですって」
詩織はニコロの楽器を試奏してみたくなった。
試奏室でアンナの楽器のケースの蓋を開け、ニコロのヴァイオリンを聴かせてみたのだ。
詩織は試しにチゴイネルワイゼンの始めの部分を弾いてみた。
驚いた事に、三人が注視する中でアンナのヴァイオリンも詩織の演奏に共鳴して歌い出したのである。
始めは見学するだけで、購入するつもりはなかったのに、詩織はどうしてもこの楽器が欲しくなった。
ニコロの提示した価格は三千ユーロ、日本円にすれば三十六万円程である。
「日本の業者が中に入ったら百万円にはなるでしょう。いい買い物だと思いますよ」
詩織は園子に言われなくても買う事に決めていた。
売買の契約書にサインして、詩織とニコロは固い握手を交わしたが、ニコロは余程嬉しかったのか握手に飽き足らず詩織をハグして来たのだ。
嫌ではなかった。
(イタリア語を学ぼう)
詩織はふとそう思った。
第六章 ジェノヴァへ
帰国した二人は報告の為に柳沼弦一郎を訪ねた。
居間に通された二人は遠藤園子の手紙を差し出した。
「先生に宜しくと言ってました」
「そうか。悪かったな。先に紹介しとけばよかった」
柳沼はざっと目を通した。
「思った通りだ。実質一位と二位だったんだね。君たちの腕ならこうなると信じてはいたが、兎に角おめでとう。次はパガニーニの国際コンクールだ。これはクレモナよりはるかに強豪が集まる。いいね」
パガニーニ国際ヴァイオリンコンクールは、パガニーニの生誕地ジェノヴァで数年に一回開催される。
今回は丁度その翌年の三月に開催が決まったのである。
前年に当たる今年の秋十月に、地元ジェノヴァと、ウィーン、ニューヨーク、東京で、予備選抜のステージがある。
東京の予備選抜に参加した二十人の内、詩織と麗子を含め八人が本選にエントリーする事が出来たのである。
世界各地で予備選に参加した百名程の中から本選にエントリー出来たのは三十二名。
日本からは二人を含めて最多の八名、次いで中国から六名、アメリカから四名、イタリアと韓国から各三名、ロシア、ドイツ、フランスから各二名がエントリーしたのである。
JTBで旅行のプランを立てた後、詩織と麗子が行きつけのレストランで夕食を摂っていると、クレモナで会った遠藤園子から詩織にメールが届いた。
詩織たちは知らなかったが、イタリアの新聞にはエントリーした三十二名のプロフィールが発表されていたのだ。
『今度はパガニーニコンクールに出るのね。又会えるのを楽しみにしています。初日は三月三日だからいつ来るの?』
東京からジェノヴァへの直行便はない。
パリのドゴール空港経由の便もあるが、二人は前回の経験を活かしてミラノで時差ボケを調整する事にしていた。
ミラノの中央駅からジェノヴァへも約一時間で行ける。
「ミラノで一泊してジェノヴァまで電車で行くつもりです。多分二日の午前中には行けると思います」
「そう。じゃあジェノヴァで会いましょう。イタリアに着いたら電話してね。それからホテルは?」
「ブリストル・パレスホテルに予約を入れてあるのですが・・・」
「そう、分かった。じゃあね」
二人は顔を見合わせた。
「良かったぁ。遠藤さんは覚えていてくれたんだ」
「親切な方ね。ジェノヴァまで来て下さるのね。イタリア語勉強しようと思ったんだけど難しいもんね」
詩織は園子と共に、あの時ハグして来たニコロの事を思い出した。
パガニーニのコンクールの課題曲は予め決められている。
第一予選ではバッハの無伴奏ソナタかパルティータから任意の二楽章、それとパガニーニの二十四のカプリースから三曲。全てが無伴奏の難曲である。