妖器
観光はそれまでにしてホテルに戻り、荷物を受け取るとすぐ近くにあるミラノ中央駅に向かった。
ミラノ中央駅はロマネスク様式の堂々たる佇まいで、二十一番線もあるホームは巨大なドームの屋根に覆われた広々とした空間であった。
ここからマントヴァ行きの電車に乗ると、約一時間でクレモナに到着する。
タクシーにメモを見せると約十分で着いたのはホテル・クレモナであった。
ツインの部屋には別室がある。二人はそれぞれ明日のコンクールに備えて練習を続けた。
エントリーする時に自分の演奏する曲も同時に登録するから、途中の変更は出来ない。
最終選考のコンチェルトには麗子はブラームスを、詩織はシベリウスを弾くつもりであった。
さすがにクレモナは弦楽器のメッカである。人口七万程のこじんまりした町のあちこちにヴァイオリンが飾られている。
クレモナの音楽祭は市の商工会議所が主催するものだが、コンクールと共に市内に百もあるヴァイオリン工房の職人たちが、各々自慢の楽器を展示して演奏家たちにアピールする機会でもある。
コンクールは市の中央部にある弦楽器博物館の近いコンサートホールで開催される。
それほど有名なコンクールではないが、観光を兼ねて世界からヴァイオリンとチェロを抱えた若い演奏家たちが集まって来る。
柳沼は気楽に行けとは言ったが、海外のコンクールは初めての二人はさすがに緊張して控室に入った。
一次予選、二次予選を難なく通過して、最後に残ったのは二人を含めて五人であった。
麗子と詩織以外は、地元出身のミケーレ・ロベルティ、フランスからセシル・ガルシア、ドイツからハンス・ヴィーマンが残った。
このコンクールにエントリーすると、希望者には市の所有するストラディバリやガルネリなどの名器を一週間貸与される。
ミケーレはガルネリを、他の二人はストラディバリを貸与されて臨んできたのである。
最終戦はコンチェルトで、リッカルド・ステファン指揮のクレモナ音楽祭管弦楽団との共演で、それぞれ一回だけリハーサルの場が設けられる。
最初に演奏したのはフランスのセシル・ガルシアであった。彼女の選んだのはチャイコフスキーのコンチェルトであった。
彼女は付き人に見送られて控室を自信ありげな微笑を浮かべながら出て行った。
二番手の麗子は楽屋で待機していた。
聴きなれたオーケストラの響き。どんな演奏をするのか。ライバルとは言え、お互いに悔いの無い演奏で競いたい。
するとまさかの事態が起こったのである。
独奏ヴァイオリンが力強い音で始まって暫くしたところで、誰でも分かる程音程を外したのである。
彼女は懸命に態勢を立て直し、何とか最後までたどり着いたが、はっきり音程を外した箇所が全楽章を通じて五か所に上った。
耳の肥えた聴衆が気に付かない訳がない。その度に溜め息とざわめきが起った。
それでも最後まで頑張った彼女には労わる様な拍手が起こった。
セシルは悔しさに顔を引きつらせながら楽屋へ引き上げて来た。
国際的なコンクールの出場者が音程を外す事など考えられない。
麗子はふとあの学生コンクールを思い出した。
(セシルが持っている楽器はストラディバリなのかもしれない)
麗子が肩まで露出したピンクのロングドレスで舞台に進み出ると、会場から期待の拍手が起こった。
彼女は落ち着いていた。
会場をぐるりと見渡して深々とお辞儀をして、指揮者に目でOKの合図を送った後、瞑目してオーケストラの音を聴きながら独奏の入る箇所を待っていた。
始って暫くすると重音の続く難しいが聴かせどころがある。
何度も繰り返し練習して来たから、鋭く豊かな音が歯切れよく流れた。
演奏を終えた彼女は総立ちになった聴衆の拍手を浴びながら指揮者とコンサートマスターに握手した後丁寧にお辞儀をして退場した。
楽屋には詩織が待機している。
「凄くよかったよ」
「有難う。詩織も頑張ってね」
詩織は無数のスパンコールがキラキラと輝く純白のロングドレスであった。シベリウスのコンチェルトに合わせて雪を纏ったつもりである。
北欧の憂愁を秘めて、彼女もこの曲を見事に歌い上げた。
彼女も麗子に劣らぬ喝采を浴び二度もアンコールに応えなければならなかった。
楽屋には次のハンス・ヴィーマンが控えていた。
彼はベートーヴェンのコンチェルトを弾くと発表されている。
微笑みを交わして詩織は控室に戻った。途中で最後の演奏に向かうミケーレ・ロベルティとすれ違った。
控室へ戻るとセシルと麗子が待機していた。
顔を覆っているセシルを慰めようもなく麗子は眺めている。麗子は隣に座った詩織に小声でセシルの泣いている訳を話した。
「信じられないミスだけど何度も音程を外したの。それにね、彼女が持っているのはストラディバリなのよ」
二人は同じ思いで顔を見合わせた。
暫くして演奏を終えたハンス・ヴィーマンが戻って来た。
彼は浮かぬ顔をしてヴァイオリンを傍らに置くと、テーブルに拳を叩きつけて悔しそうにしている。彼もどうやら不本意な演奏に終わったのだろう。
言葉が通じないし、話しかけられる雰囲気ではなかったが、偶々彼がトイレに立った時、ヴァイオリンを手に取ってみると紛れもなくストラディバリだったのだ。
最後の演奏を終えたミケーレ・ロベルティが戻って来た。
彼は自信ありげに落ち着いていた。
麗子が身振りで楽器を見せてくれと頼むと、彼は誇らしげに「デル・ジェス・ガルネリ」と言いながら見せてくれた。
選考には時間がかかっていた。
セシル・ガルシアとハンス・ヴィーマンは絶望的てある。
詩織と麗子とミケーレ・ロベルティ。
誰が一位を制するか。
ややあって、係り員が三人を呼びに来た。
ステージには三つの椅子が並べられ真ん中の椅子に座ったのはミケーレで、その右に詩織、左に麗子が指定された。
審査員の代表が登壇した。
「一位、ミケーレ・ロベルティ。二位、詩織・森山。三位、麗子・大沢」
その瞬間、聴衆から一斉にブーイングが起ったのである。
麗子にも詩織にも訳が分からなかった。
審査員の代表は鳴りやまぬブーイングに困惑しながらそれを制すると、暫く待ってくれと言ったのか、一旦ステージから降りて審査員席で何事か相談している様子だった。
その結果、順位は変更されなかったが、麗子と詩織には特別観客賞が贈られる事になった。
控室で着替えを済ませロビーに出ると、地元紙の記者や多くの聴衆が待ち構えていた。
その中にクレモナに住んで活動している日本人のヴァイオリニスト遠藤園子の姿があった。
「私はここに永住している遠藤園子です。お二人の事はよく存じて居ります。ブーイングが起ったでしょう。あれは当然です。誰が聴いてもお二人の演奏の方が格段に良かったのよ。 ミケーレが一位になったのは、彼が地元出身だから贔屓目で見られた訳。だから実質的には森山さんが一位、大沢さんが二位だと思っていいのよ」
「そうだったんですか。コンクールでもそんな事が・・」
「まあ、そんなにメジャーなコンクールじゃないしねぇ。で、いつ帰るの?」