妖器
コンサートマスターの柳沼は麗子と詩織に握手を求めた。
「有難う」
会場を後にした二人はすっかり打ち解けていた。
「話したい事って・・・」
「うん、ちょっと他人には聞かれたくない話」
「じゃあ家に来ない?」
「そうね」
新宿から環状線に乗り、渋谷で乗り換え自由ヶ丘までは約二十五分である。
駅からそう遠くない所に麗子のマンションがある。
「ただいまー」
麗子は出て来た母親に詩織を紹介した。
「まあまあ、この度は有難う御座いました。さあさあどうぞ」
麗子は恵まれた環境で暮らしていた。
防音された十畳ほどの部屋が彼女の練習室である。
麗子はそこへ詩織を招じ入れた。
「大沢さんの今の楽器は?」
「それがね。ガダニーニなの」
二人は思わず笑った。
ガダニーニもクレモナの名器には違いないのだが、嘗て芸大の教授が、悪徳な楽器商にラベルを貼り替えた偽物を掴ませられ、それを弟子に斡旋して高額なリベートを受け取ったと言う曰くつきの楽器だったからである。
「でも、これは本物よ。内藤先生と二人で銀座の楽器店へ行ったら、試奏用の小ホールがあってね、後ろの方に座っていたら五挺程の楽器を先生が試奏して私に選ばせたのよ」
「それでこれを選んだんだ」
「そう。それでね、今度は私が弾いて先生に聞いて貰ったの。先生も満足そうだった。後は私が直接値段の交渉をしたからね」
「その楽器、気に入ってる?」
「そりゃあそうよ。私の体の一部だもの」
「だったら、あの時どうしてストラディバリで・・・」
「まあね。貸してくれるんだったら、やっぱり憧れのストラディバリ、弾いてみたいじゃない。こんなチャンスは二度と無いかも知れないし・・・」
「そうよねぇ〜 勿論私も貸してくれるんならそうしたい。でもね、あの楽器の所為で指が痺れたのかも知れない。これを読んでみて」
それは、あのアンナの文書の日本語訳で、お宝探偵団では語られなかった内容である。
麗子は食い入るように読んだ。
「驚いた。これじゃあストラディバリの面目丸つぶれね。神話が崩れてしまう」
「そうでしょ。だから楽器業界ではこの文書は無かった事にして封印したわけ。
それと最後の部分、信じたくないけど、彼女の呪いが私の楽器にかかっているような気がする。そう思えばあなたの指が急に麻痺した理由も納得できるでしょう」
「ふぅん。そうかぁ。やっぱりそうとしか考えられないなぁ」
「でしょう。あの時あなたがガダニーニで弾いていたら間違いなく一位になってたはずよ」
「それは分からないけど、これでやっと納得が出来た」
「これは絶対秘密だからね」
「そう言えば、六億円の価値があるストラディバリの盗難事件があったけど、確かタルティーニと言う愛称だった筈よ。ここに書かれているアンナが最初にストリディバリに見せた楽器かも知れない」
「本当だ。これは凄い事になったね」
東日ホールでの記念演奏会は大成功であった。
特に何度もアンコールに応えて現れた二人が握手している場面には、感動のあまり涙を拭く観客も散見されたのである。
詩織は藤重響子に師事する傍ら、週に一度上京して柳沼弦一郎のレッスンを受けるようになっていた。
二人は順調に成長して行った。一般人の参加する全日本音楽コンクールでは、麗子が一位、僅少の差で詩織が二位を占めた。
二人とも将来を嘱望され、文科省の奨学金でパリとニューヨークに一年ずつ留学の機会が与えられたのである。
ここまで来ると詩織も活動拠点を芦屋の自宅から東京に移さざるを得なくなり、単身で世田谷のマンションを借りる事になった。
「君たちは凄いな。こんなに早く上達する生徒は初めてだ。これからは二人とも国際コンクールを目指すんだよ。手始めにクレモナ音楽祭のコンクールに挑戦するといい。あまりメジャーじゃないけど、クレモナと言う古い街は何と言っても弦楽器のメッカだからね。町中にヴァイオリンが溢れているんだ。楽しみも色々あるからね」
(アンナに里帰りさせてやる機会が出来た)
そんな思いでコンクールとは別の感慨に耽る詩織であった。
第五章 クレモナへ
羽田空港十一時三十五分発の日本航空に乗ると、ヘルシンキのヴァンター空港で乗り継ぎ、ミラノのマルペンサ空港に着くまで十四時間のフライトである。
然し、ミラノに降り立つと、現地時間は当日の午後六時を過ぎたばかりであった。
東京とミラノでは八時間の時差がある。
日本時間なら午前一時と言う深夜の筈だから二人は眠くて仕方がない。ふらつく脚で楽器と衣装ケースを持ち、タクシーにメモを渡したらすぐに予約してあるホテルまで運んでくれた。
そこはミラノの中央駅に近いワナホテルセンチュリーミラノであった。
今回の旅程は、初めての海外旅行の二人の為に、師の柳沼弦一郎が立ててくれたもので、タクシーに渡すメモまで用意してくれたのだった。ツインの部屋で旅装を解いた二人は、そのままベッドに倒れ込んで泥の様に眠ってしまった。
翌日はすっきり目覚めた。
折角ミラノに降りたのだから、見たいところは一杯ある。
二人はホテルに荷物を預け、先ずミラノのシンボルであるドウオモを見学する事にした。
前の広場を歩いていると、如何にも親し気に微笑みながら近づいて来る男たちが居る。
彼らは観光客の懐を狙って物を売りつける輩である。
「やっばりねぇ」
二人は手を横に振り、ノーを繰り返しながら乍ら歩いた。
(親し気に近づいて来る人達は観光客を鴨にして物を売りつけるから相手にするな)
こんな細かい注意迄柳沼は書いていたのである。
ミラノのドウオモは、サンタマリア・ナシェンテ教会と呼ばれる大聖堂で、二人はその見事な彫刻を施された象牙色のゴシック建築に圧倒された。
屋根を覆う無数の尖塔は活花に使う剣山を思わせる。
「これでは悪魔も侵入出来そうにないね」
「痛そう」
内部に入ると礼拝堂の正面は、見上げるようなステンドグラスで、そこには聖人たちの姿がカラフルに描かれている。
大聖堂に隣接してガレリアショッピングモールがある。ミラノはバリと並ぶファッションの町である。軒並みにグッチやフェラガモなどの有名ブランドの店舗や宝石店などが並んでいる。
二人はショッピングに来たわけではないのでウィンドウだけ覗いて、次の見学にまわった。
ミラノと切っても切れないのはレオナルド・ダヴィンチである。
彼はモナリザや最後の晩餐を描いた画家でもあるが、彫刻家でもあり、建築家・数学者・科学者・発明家と人類史上最も多才な人物であった。
レオナルド・ダヴィンチ記念国立科学博物館には夥しい彼の発明品や図形が展示されているほか、近代の飛行機の発達を示す実物の飛行機などが展示されていて、とても全部を見て回る時間がない。
然し二人を驚かせたのはヴァイオリンもダヴィンチの発明品だった事だった。
ヴァイオリンの元祖はニコロ・アマティーだと信じて来たのに、彼はダヴィンチの弟子の木工技術者からヴァイオリンの原型を知ったのであった。
見るべきところはまだまだあるが、二人にとってはミラノは通過地点に過ぎない。