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妖器

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 「じゃあ今日はこれで帰るから・・・」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 この日が最後であった。
 ストラディバリは二度と訪れる事は無かった。そればかりか、アンナはヴァイオリンの材料さえ買えなくされてしまったのである。
 アンナは残っていた材料で怨念を込めて一挺のヴァイオリンを作り上げた。それに添えて、事の経緯を羊皮紙に書いて残したのが例の古文書である。
 文書は次の言葉で締めくくられていた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 この楽器を手にしたヴァイオリニストにお願いします。私の無念を晴らして下さい。私は永久にストラディバリを呪います。
                 アンナ・マーティー


 第四章 友情

 詩織の手元にある羊皮紙には、この楽器を作った経緯が細かい字でビッシリ綴られていたのだ。
 あのお宝探偵団の収録が終わった後、コピーされた文書は全部焼却され、一部の関係者のみに語り継がれる事になった。
 詩織にはアンナの心情は痛い程理解出来た。
 まさかとは思うが、大沢麗子はストラディバリで自分と争ったために、呪われてあんな惨めな目に遭ったのかもしれない。
 もしそうだとすれば何とも気の毒な事だ。
 詩織は好敵手としての大沢麗子を失いたくなかった。
 (何とかして友情を築きたい)
 その機会は案外早くやって来た。
 恒例の行事として、コンクールの一位になった奏者を招いて東日シンフォニーオーケストラと共演する機会が与えられるのである。
 それを告げに来たのは、東日テレビの記者宮沢であった。
 彼は音楽監督の内藤晴彦を伴っていた。
 内藤晴彦は著名な指揮者で、世界各地のオーケストラの客演指揮者として招かれている。
 詩織にとっても憧れの指揮者である。
 「森山さん。何か弾きたいコンチェルトがありますか?」
 晴れ舞台である。オーケストラとの共演は初めての詩織は迷った。
 指揮者の内藤晴彦が案を出した。
 「メンデルスゾーンやチャイコフスキーでは面白くないですね。シベリウスなんかどうですか?」
 シベリウスはヴァイオリンの名手だったのに、コンチェルトはこの一曲だけである。
 北欧の憂愁を漂わせるこの曲は、詩織も大好きな曲の一つではあったが、まだ彼女のレパートリーには無かった。
 一か月の練習ではとても無理である。
 「ご期待に沿いたいのですが、今の私には荷が重すぎます。一つご無理なお願いをしても良いでしょうか?」
 「何なりと」
 「出来ればバッハの二台のヴァイオリンの為の協奏曲にしたいのですが・・・」
 「何ですって、もう一人はどうするんです?」
 「大沢麗子さんと弾きたいんです。勿論うんと言って下さればですけど・・・」
 「ああ、大沢さんね〜。でも彼女は失格ですからね〜」
 「私、思うんですが、あの優勝は僥倖だったのではないかと・・・」
 「僥倖・・・ですか」
 「大沢さんは天才です。タルティーニなんて私にはとても無理ですから・・・」
 「彼女にも無理だったんじゃないかな」
 「それはあり得ないと思います。コンクールとなれば、かなり余裕をもって出場された筈です。あんなトラブルが無ければ大沢さんが一位だったと思いますよ」
 宮沢は暫く考えていたが急に笑顔になった。
 「そりゃあいい。話題になりますよ。『敗者への友情の共演』美談です。内藤先生、それでどうですか?」
 「まあ地味だけど、初めてのコンチェルトですから堅実な選曲ですね。宮沢さん、大沢さんの意向を訊いてみて下さい。彼女が承知すればそれで行きましょう」
 詩織はほっとした。

 大沢麗子はどうしてもあのトラブルが納得できなかった。
 あれ以来左手に麻痺がおこることはなかったし、レントゲン検査でも異常はなかったのである。
 彼女の師は、東日シンフォニーオーケストラのコンサートマスター柳沼弦一郎である。
 彼も又大沢麗子の一位を確信していた。
 (あれだけ何度も完璧な技術で弾けたのに何故なのか?)
 「気を落とすな。君にはまだまだ将来がある。私はどうしても国際的コンクールで優勝させたいんだ。君なら出来る。絶対出来る」
 周囲から励まされ、麗子は次の機会に備えてブラームスのヴァイオリン協奏曲の練習を続けていたのである。
 彼女の父親はあるIT企業の社長で、麗子は両親と共に自由ヶ丘のマンションに住んで居る。
 インターフォンが鳴ったので覗いてみると見覚えのある男が立っている。
 「東日テレビの宮沢と申しますが、麗子さんでしょうか」
 「はい、私ですが、何か・・・」
 「折り入ってお願いがあるんですが・・・」
 「分かりました。今開けます」
 麗子の胸にあの時の悔しさがまざまざと蘇った。
 「ご承知の様に、あのコンクールの優勝者は記念公演として東日のオーケストラとの共演の機会が与えられます。つまり今年は森山詩織さんが独奏者なんですが、彼女はどうしてもあなたとバッハのドッペルコンチェルトを弾きたいと言うんです」
 「何ですって、それって同情ですか?」
 「いえいえ、絶対にそれはありません。彼女もあのコンクールでのトラブルはどうしても腑に落ちないらしくて、もしトラブルが無ければ間違いなく一位はあなただった筈だと言うんです」
 「そうなんですか。解かって頂けたのは嬉しいんですけど・・・」
 「彼女は兎に角あなたに会って話をしたいらしいんです」
 「ちょっと待って下さい。先生と相談して見ます」
 麗子は師の柳沼に事の次第をメールで送った。
 暫くして電話が架かった。
 「いい話じゃないか。初めてのコンチェルトとしてはこれ位が丁度いい。君なら練習する必要もないくらいだし、私の前で弾くんだから嬉しいよ」
 麗子は初めて笑顔を見せた。
 「宜しくお願いします」
 ひと月が過ぎた。
 リハーサルの会場で詩織と麗子は固い握手を交わした。
 「有難う。こんな機会を与えて下さって・・・」
 「嬉しいです。あなたにはどうしてもお話したい事があるんです。後でね」
 こんな二人の姿を楽員たちは笑顔で見守っていた。
 指揮者の内藤晴彦が声をかけた。
 「兎に角一度通してやってみましょう。ファーストは?」
 二台のヴァイオリンのための協奏曲だからどちらを受け持つかを決める必要がある。
 第一と第二はあっても、どちらが主体と言う程でもないが、一応詩織が第一ヴァイオリンを受け持つ事になった。
 指揮者のタクトと共に曲は軽快に流れ、初顔合わせにも拘らず二人は息の合う演奏を見せて流れる様に終わった。
 「殆ど言う事はありませんが、バッハはただ機械的に弾いてはつまりません。ここの八分音符の続くフレーズがあるでしょう。頭の一音だけ心持ち長めに、そしてほんの僅か強めに弾いてみましょうか」
 内藤は二人の楽譜の何箇所かに鉛筆で丸を入れた。
 「ちょっと弾いてみて下さい」
 二人とも勘がいい。指揮者の意図がすぐ演奏に反映された。
 「そうそう。その調子。ではもう一度通してやりましょう」
 二度目の演奏で二人は見事にバッハを歌い上げたのである。
 指揮者や団員の拍手に包まれながらリハーサルは終わった。
作品名:妖器 作家名:蛙川諄一