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妖器

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 代金の事に触れたのは、通常より出来が良い事で高いのではないかと感じたからだろう。
 ストラディバリは唖然とした。
 アンナが独立した工房を作る事だけは絶対に阻止しなければならない。
 嘗てヴァイオリン作りの元祖であり、自分の師であったニコロ・アマティーは、弟子であった自分やガルネリが独立して、アマティーの顧客を奪ったために没落してしまったのだ。
 アンナが自分より優れた楽器を作って売りだせば如何なるか、結果は見えている。
 (どうすれば良いのか?)
 アンナは当に二十歳。若くて美貌の女性であった。
 ストラディバリにはフランチェスカと言う妻が居たが、アンナには職人としての腕とは別に、女性としても魅力があった。
 翌日アンナが訪ねて来た。
 「マエストロ、あの楽器は?」
 「あぁ、あれね。出来が良かったから買い取る事にしたよ。はい、これが代金だ」
 「えっ 本当ですか」
 「それとね、これから君の作るヴァイオリンは全部私が買い取るからね。但し、条件が一つある。それは私のラベルを貼る事だ。解かるね」
 アンナにとっては思いがけない事であった。
 自分の楽器がストラディバリの作品として出て行くのだ。
 それが何を意味するのかも良く分かぬまま、アンナは単純に喜んだのである。
「取り敢えず私のラベルを十枚渡すからね。それとアドヴァイス出来るかもしれないから、
これから君の所へ行こうと思う。構わないかな」
 アンナは、まだ若い未亡人の母親との二人暮らしである。少し躊躇いはあったが、まさかストラディバリが変な事をするとは思えず承知したのである。
 然し、彼には一つの思惑があったのだ。
 アンナと母親のマルガリータを前にストラディバリはこう切り出した。
 「お母さん。娘さんは大した職人です。私の宝物です。色々あって、いずれ妻とは離婚する心算です。ですから私と結婚させて下さい」
 アンナも母親も、突然の申し出に驚いた。どう答えていいのか分からず顔を見合わせた。
 ストラディバリとアンナではまるで親子である。余りにも年が離れている。それに本当に離婚するのだろうか?
 然し、マルガリータもいずれはアンナを結婚させたいと言う気持ちもある。
 「突然のお話なのでとてもすぐには・・・」
 「ああ、急がなくてもいいんです。でも私は本気ですからね」
 そう言い残してストラディバリは去っていったのである。
 この申し入れは少なからずアンナ親子を動揺させた。
 はっきりと断り切れないままに、ストラディバリは様子を見る事を口実に度々アンナの工房を訪れるようになった。
 型も道具もあるから、材料さえあれば、アンナの腕ではほぼ一ヶ月で一挺は作れる。
 ただ、ニスが乾くまでの数か月間は何とも仕様がないが・・・
 ストラディバリは週に一度の訪問を重ねてはいたが、あれ以来結婚の話は一切口にしなくなったのである。
 それは巧みな戦術であった。
 アンナ母娘は密かに、あのプロポーズを期待をするようになって行ったのである。
 最初の一挺が仕上がる頃合いを見計らって、彼は受け取りに現れた。
 「うむ。よく出来ている。代金はこれでいいかな」
 それは本来のストラディバリの価格からすれば半分にも満たない金額ではあるが、それでもアンナにとってはかなりの金額であった。
 「これからも時々覗きに来るからね。私の工房には来なくていいから・・・」
 彼は工房では弟子たちに厳しかったが、アンナには人が変わったように優しい。
 訪問が週に一度が二度になり、二日に一度になった頃、彼は遂に結婚話を切り出したのである。
 「あの話、如何なったの?」
 彼はもじもじしているアンナを不意に抱きしめた。
 「君が好きだ。愛してる」
 耳元でそう囁かれると、アンナの理性は忽ち音立てて崩れ去った。
 当然の成り行きで、二人は結婚を前提としての愛人関係になったのである。
 然し、現実はそんなに甘くはなかった。ストラディバリは妻に離婚話を切り出せなかったのだ。彼には離婚を迫る理由など全くなかった。
 フランチェスカは貞淑な妻だし、ストラディバリの妻である事に誇りを持っていたのだ。
 彼は離婚せずに何とかアンナを愛人として上手く利用しようと考えていたのである。
 女の勘は鋭い。
 工房から度々姿を消す夫に気が付いた妻のフランチェスカは、密かに弟子の一人に後をつけさせ、アンナの存在を突き止めたのである。
 「あなた、話があります」
 「何だ、急に改まって」
 「あのアンナと言う女、一体何なの?」
 「あぁ、あれか。彼女は私の下請けだ」
 「下請けですって。工房には息子や弟子たちが居るじゃあないですか」
 「それはそうだが彼女は特別だ。腕が違う」
 「どう違うのよ」
 「あのタルティーニが私のでなくて、アンナの作った楽器を選んだんだ」
 「何ですって! あなた、恥ずかしくないの。あなたはストラディバリでしょ。自分の力であの女以上の楽器を作りなさいよ」
 妻にまくし立てられ、彼には返答の仕様がない。
 「それに、あの女がどんなにあがいても一挺仕上げるのに何か月かはかかるでしょう。出来上がったら持って来させりゃ良いのに、どうしてあんなに度々出かけるの? もしかして・・・」
 「馬鹿な事を言うな。そんなんじゃないっ!」
 「そりゃあそうでしょうね。分かったわ」

 追求はそこまでで終わったが、フランチェスカは、一瞬見せた夫の顔色で全てを覚ったのである。さすがに度々出かけるのは不味い。
 次の楽器が仕上がる時期を待って、彼はアンナの下へと馬車を走らせたた。
 馭者はいつものように、アンナの工房の裏手の人目につかない場所へ馬車を移動して待たせてある。
 楽器は完成していた。
 「ああ、アントニオ。やっと来てくれたのね」
 二人はもつれ合うようにアンナの寝室に消えた。
 母親は、まだ幽かな危惧は抱いてはいたが、此処まで来れば認めざるを得なかったのである。
 そこへストラディバリを追うようにして一台の馬車が停まった。
 マルガリータの胸に、一瞬不吉な予感が走った。
 「御免下さい。突然お伺いして申し訳御座いません。私はフランチェスカ・ストラディバリと申します」
 「アンナの母親のマルガリータです。いつも娘がお世話になり有難う御座います」
 「いえいえ、こちらこそ、で、主人がこちらに参っている筈ですが・・・」
 フランチェスカは工房の中を見回した。
 そこには既に出来上がった楽器がある。当然受け取るだけで用は済む。
 マルガリータは苦しい嘘を吐かなければならなかった。
 「ついさっきまでここに居られたんですが・・・裏の森にでも散歩に出られたのかしら」
 「そうですか。じゃあこの楽器は私が持って帰ります。主人が戻りましたらそうお伝えください。ではこれで・・・」
 フランチェスカは見え透いた嘘を追求する事も無く帰って行った。
 身繕いして出て来たストラディバリは、楽器が無くなっている事に気が付いた。
 「あれっ 楽器は・・・」
 「ついさっき奥様が来られて持って帰られましたよ」
 マルガリータから事の次第を聞いた彼は言葉を失った。
 努めて平静を装った彼の顔は蒼白になったのである。
作品名:妖器 作家名:蛙川諄一