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妖器

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 「依頼人の登場でーす」
 開かれたカーテンから、詩織は父親と共に白布で覆われたテーブルを押しながらステージに進み出た。
 観客たちの視線が、一斉に白布に覆われた台と森山親子に注がれる。
 いつもはテレビで見ている場面に自分が立っているのは何とも面映ゆい。
 ステージには古陶磁器専門の石橋誠三郎や、絵画専門の楢橋節子などと並んで、今日は古楽器専門の鈴木総一郎が控えている。
 司会者は俳優で音楽通の小峰あきらである。
 彼は森山親子に代わって説明を始めた。
 「今回のご依頼人森山詩織さんは、皆さんご承知の通り学生音楽コンクールヴァイオリン部門で一位になられた方ですが、その時弾かれた楽器がこれなんです。鈴木先生、鑑定の結果は如何でしょうか?」
 鑑定士の鈴木総一郎は、古楽器の収集家でもあり、その鑑定眼にも定評がある。
 彼は楽器を取り上げ、表、裏をしげしげと眺めた後、裏板をコンコンと軽く叩いて深く頷くと席に戻った。
 「森山さんはもう由来はご存知ですが、ご自分ではどの位の価値と思われますか?」
 「そうですねぇ、由来は解ったんですが何しろ無銘ですからね」
 詩織は五千万円と書いて札を高々と掲げた。
 ヴァイオリンの価格は素人にはよく分からない。
 弾き手の腕が良ければ、数万円の楽器と数百万円の楽器を弾き比べても区別がつかないのが普通だ。
 それにストラディバリウスなら数億円もする事は常識だから、五千万円には驚く人は居なかった。
 ところが価額表示を見て会場どよめきが起こった。
 価格の表示板の0が瞬く間に増えて行ったのである。
 五億円!
 「いや〜 驚きました。こんな文書があるなんて・・・この用紙は羊皮紙ですし、羽ペンに没食子インクをつけて書かれています。いずれも十八世紀に使われていたものに間違いありませんね。
 私達はヴァイオリンのラベルは左程気にしません。
 何故かと言うと、信じられないかも分かりませんが、十九世紀までは偽のラベルを貼ってはならないと言う法律が無かったんです。
 ストラディバリやガルネリのラベルも印刷されて別の製作者も貼っていたんです。
 然し、偽物と言っても素人には見分けがつきません。よく鳴りますしね、数千万の価値のある楽器もあるんです。
 それに、ストラディバリの工房で作られたものは、職人が作ったものでもストラディバリウスのラベルが貼られます。マエストロの手作りでなくてもです。
 それは当時としては常識だったんですねぇ。
 それを考えると、この文書はラベルよりはるかに信憑性があります。当時の信じられない様な真実のドラマがあったんですねぇ。
 これは世界に一つしかないヴァイオリンですが、間違いなくストラディバリウスを超える名器に間違いありませんね。この古文書だけでも五千万の価値があります。
 折角ですから森山さん、ちょっとだけ音を聴かせて頂けませんか」
 詩織は楽器を構えた。
 (誰れでも知っている曲、そうだあれにしよう)
 音響効果など考えて建てられたホールでもないのに、朗々と響いたのはサラサーテのチゴイネルワイゼンの最初のさわりであった。
 「おぉ!」
 会場は歓声と拍手に沸き返った。
 「どうぞ大切になすって、これからもご活躍下さい」
 鑑定士の説明はここで終わった。


 第三章 ストラディバリの愛人

 残されていた古文書の署名者アンナ・マーティー。
 彼女がこのヴァイオリンの製作者であった。
 そして、その古文書には葬り去られた驚くべきドラマが記されていたのである。
 アンナの父親アントニオ・マーティーは優れたヴァイオリン職人だった。
 だが、生来の酒好きが祟って四十二歳の若さで脳卒中で倒れ、死は免れたものの手足が不自由になってしまったのである。
 その時アンナは十五歳であった。
 彼女は、ヴァイオリン製作に精根を込めていた父親の姿を見ながら育った所為で、ヴァイオリンと言う楽器に魅せられていた。
 その優美な形も、奏法によってさまざまに変わる音色も大好きであった。
 「ねぇ お父さん。私もヴァイオリン作りたい」
 「何だって、女のお前には無理だろう」
 「そんな事ないって。もう十年もお父さんの仕事ずっと見て来たのよ」
 父親は暫く黙り込んでいた。
 無理だろうとは言ったものの、娘が後継者になる事が嬉しくない筈はない。
 「そんならやってみるか」
 それから父親の厳しい指導が始まった。
 何度も失敗を繰り返しながら三年の歳月が流れた。
 アントニオには、いつも試奏してくれるヴァイオリニストの友人がいて、時々マーティー家を訪れて、アンナに試奏できる程度の奏法を教えたのである。
 ヴァイオリンの職人なら難しい曲は弾けなくても試奏くらいは出来なければならない。
 擦弦楽器は特に運弓の技術が大切だ。常に弦と直角に当たるように滑らかに動かす必要がある。アンナはすぐに要領を会得した。
 試奏だけなら精々音階でも弾ければ充分である。然し彼女は試奏を繰り返すうちに、幾つかの曲を演奏出来る程の技術を身につけたのである。
 アンナは自分独自の工夫で、表板と裏板の厚みのバランスや膨らみ、ニスの配合などに独自の工夫を凝らしながら、五年目にようやく自分でも満足できる一挺を仕上げた。
 その頃、父アントニオはもう動く事もままならず床についていた。
 アンナはその一挺を弾いて父親に聴かせてみた。
 「どう、お父さん」
 「おお、なんて素晴らしい音だ。よくここまで頑張ったなぁ。どうやらお前はとうとう私を越えたようだ」
 彼は涙を流しながら娘アンナの手を強く握りしめたのであった。
 然しアントニオはそれを見届けて安心したのか、その三日後には亡くなってしまったのである。
 アンナは父親から言われていた通り、その一挺を持ってストラディバリに会いに行った。
 ストラディバリは、アンナの父親も、製作した楽器も知っていた。
 「君がマーティーさんの娘さんか。それはお父さんの作った楽器かい?」
 「いえ、私が作ったのです」
 彼はアンナの楽器を受け取ると軽く試奏して驚いた様子を見せた。
 「これ、ほんとに君が作ったの?」
 「はい」
 「ちょっと預からせてくれないか」
 「勿論です」
 アンナは嬉しくて仕方がなかった。
 なにしろ偉大なるマエストロが認めてくれたのだ。
 ところが、これがアンナにとって思いがけない運命の転換を齎したのである。
 ストラディバリは、その楽器に自分のラベルを貼って、あるヴァイオリニストの来訪を待っていた。
 翌日、ジュセッペ・タルティーニが新しい楽器を買うために、ストラディバリの工房を訪れた。
 ストラディバリは何食わぬ顔でタルティーニの前に三挺の楽器を並べた。
 その右端にアンナの作った楽器を置いて、タルティーニがどれを選ぶかをじっと見守っていたのである。
 彼は三挺の楽器を一つずつ何度も試奏して行った。
 試奏と言っても何しろタルティーニである。その華麗な演奏に工房の職人たちはうっとりと聴き惚れた。
 「これにしよう。断然これがいい。代金はいつも通りでいいんだろ」
 彼が選んだのは、何とアンナの作った楽器だったのである。然も、断然いいと言い切ったのだ。
作品名:妖器 作家名:蛙川諄一