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妖器

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第一章 謎のヴァイオリン

 詩織は楽屋から出て行く大沢麗子をじっと見送った。
 そのステージは東日テレビの主催する日本学生音楽コンクールの最終審査であった。
 大沢麗子は高校三年生。 
 ヴァイオリンの天才少女と言われ、今日は日本弦楽器財団から、特別にストラディバリウスを貸与されて出場したのである。
 詩織にとっては最強のライバルであった。
 舞台に立った大沢麗子が選んだ自由曲は、タルティーニの「悪魔のトリル」と呼ばれるト短調のソナタである。
 タルティーニが夢で悪魔が弾くのを聴いて、自分の魂と引き換えに手に入れたと言う伝説を持つこの曲は、相当の自信がなければ取り上げない難曲である。
(負けた)
 曲名を聞いただけで詩織はそう思った。
 今の彼女の技量では到底弾けそうもない。ところが大沢麗子は弾き始めて五分と経たない内に突然止めてしまったのである。
 会場は騒然となった。
 楽屋に引き上げた大沢麗子は泣きながら訴えた。
 「急に左の指が痺れて…」
 付き人が駆け寄って心配そうにのぞき込んだ。
 「昨日練習し過ぎたんじゃないか?」
 本来なら失格になるところだが、彼女は特別に五分間の休憩を許されたのである。楽屋で付き人がマッサージすると、すぐに何ともなかった様に動くようになった。
 「もう大丈夫ですから・・・」
 彼女は明るく笑って再びステージに立った。
 ところが大丈夫では無かった。又もや左の指が麻痺してしまったのである。此処まで来てしまえば失格もやむを得ない。
(悔しいだろうな〜)
 嗚咽を漏らし乍ら楽屋を去って行くライバル。
 単純に幸運と言って喜んでいいものか、詩織は彼女に同情を禁じ得なかった。
 詩織は目の前で起こった出来事に影響されないかと心配を抱えながらステージに立った。
 彼女が選んだのはバッハの無伴奏パルティータ第二番である。無伴奏だからピアノに気を遣わなくても良い反面、だからこそ生易しい曲ではない。
 多くの重音があり、演奏者の技量が一発で確かめられる難曲である。
 弾き始めると先ほどのトラブルなど全く忘れ、バッハに憑かれたように両手が動く。豊麗で輝かしい音がホールの隅々まで届いた。
 詩織は自分でも驚く程落ち着いていた。
 最前列の真ん中に陣取っている五人の審査員が、お互いに顔を見合わせながら頷き合っている様子さえ見ていたのである。
 約三十分の最後を飾るシャコンヌを弾き終わった詩織は、盛大な拍手に包まれ、何度もアンコールに応えなければならなかった。
 結果は問題なく一位優勝であった。
 楽屋には報道陣が待ち構えていた。
 「森山さん。ちょっと楽器を見せて頂けませんか」
 詩織が持っているのは不思議なヴァイオリンである。
 普通ならf字孔から見える場所に貼られている筈の、製作者名や製作年代が記載されたラベルが全くなかった。
 東日テレビの記者は、詩織の楽器を手にして不思議そうな顔をした。
 「あれっ ラベルがない。これはどちらで・・・」
 「私にも解らないんです。何でも祖父があるイタリア人から譲り受けたらしいんですが、それ以上は・・・」
 
 翌日の各新聞の二面には、『無銘のヴァイオリンで臨んだ森山詩織がコンクールを制覇した』
 大見出しと共に、詩織の写真や大沢麗子のトラブルなどが、囲み記事で取り上げられていたのである。
 『森山詩織はバッハを演奏したが、選曲も審査員に好感されたのだろう。確かな技量で一位を獲得した。
 それに対して、期待されていた大沢麗子は、難曲のタルティーニの「悪魔のトリル」に挑戦したが、途中で左指の麻痺が理由で失格した。
 彼女のストラディバリウスの音色が聞けなかったのは残念だったが、森山の楽器は全くの無銘であるにも拘わらず、その豊潤で艶やかな音色は会場全体に響き渡り聴衆を魅了した』
 数日後の日曜日、あの時の東日テレビの記者が詩織の自宅にやって来た。
 詩織と父親の紀彦はリビングで宮沢淳と言うその記者と会った。
 「済みませんがもう一度あのヴァイオリンを拝見したいのですが・・・」
 改めて眺めてみたが、勿論ラベルはない。
 「詩織さんの先生は何方ですか?」
 「手ほどきをしてくれたのは父です」
 「えっ お父様が・・・」
 「実は、私は趣味でヴァイオリンを習っていたんですが、この子が小学校へ上がる頃に、しきりにヴァイオリンに興味を持つようになりましてね、試しに安価な二分の一のヴァイオリンを買い与えたんです。
 ところが、親馬鹿と言いますか、何だか才能があるように思えて、芸大卒業の藤重と言う先生に見て貰うようになったんです」
 「いや、親馬鹿どころじゃ無かったですね」
 記者は又しげしげと楽器を眺めた。
 裏板は通常二枚の楓の板が合わされている事が多いが、詩織の楽器は一枚板である。
 全体に赤ワインのような美しい色のニスで塗られていて、通常のいわゆるあめ色とはやや異なっている。
 「お祖父様がイタリア人から譲り受けたとお聞きしましたが、それ以外に手掛かりになる様な物はありませんか?」
 「そう言えば何か古い文書が添えてあったな」
 暫く席を立った父親は一枚の文書を手にして戻って来た。
 「これなんですがね。多分古いイタリア語だと思うのですが、インクもこれ、この通り見えない程色褪せてますしねぇ」
 それは普通の紙ではなく、何かの皮を紙の様に薄く伸ばしたようなもので、多分古いイタリア語と思われる文字がびっしり書き込まれている。
 「あっ こんな物があったんですか。これ、一週間程預からせて頂けませんか、絶対に損傷しないよう注意しますから・・・」
 森山親子にとってもこの文書の内容は是非知りたいところである。
 「分かりました。宜しくお願い致します」
 記者は大喜びで帰って行った。
 それから丁度一週間経って、その記者宮沢淳が訪ねて来た。
 「有難う御座いました。実は凄い事が分かったんです。あの古文書ですけど、薬品処理しましてね、何とか判読出来るようになったんです」
 確かに殆ど消えて見えなくなっていた文字が見えるようになっている。
 「これをコピーしましてね。言語研究家に解読して貰ったんですよ。これがその訳文です」
 そこには俄かには信じられないような内容が書かれていたのである。
 「それでですね。ご存知の番組だと思いますが、次回の『お宝探偵団』に是非依頼人として出場して頂きたいんです」
 森山親子はその文章を読んで顔を見合わせた。
 何しろこんな事実が明るみに出たら、楽器業界や楽壇関係者にとっては、余りにもショッキングな話だったからである。
 「で、鑑定士さんの御意見は?」
 「勿論本物だと鑑定しました。ところが楽器業界はこんな物を公表されては困ると猛反対したんですよ。でも私たちはどうしても取り上げたいんですよね。それでですね、詳細な内容には触れない条件でOKを取ったんです」
 「そうですか。そこまでご苦労されたんなら出ない訳には行きませんね」
 「有難う御座います。普通は視聴者からの依頼を受けて出て頂くんですが、今回はこちらからのお願いなんで、僅かですが旅費の足しにでもして下さい」
 宮沢は十万円を置いて帰って行った。


 第二章 鑑定
作品名:妖器 作家名:蛙川諄一