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大文藝帝國
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おとめ

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「トモには何も言っていません」
「……貴方のことを気に入ってるのは本当よ。智花は学校のお友達にも『ちかちゃん』としかよばせなくて」
「お母様」
 聡子様の肩が大きく跳ね、油をさしていない機械のようなぎこちなさで入口の方を見た。楽譜の束を抱き直す。微笑んではいるが瞳は揺れていて、どちらかというと泣き顔に近い。
 トモはまだ制服姿だった。深緑のジャンパースカートに燕脂のリボンタイが左右対称に結ばれている。耳下で切り揃えられた黒髪を一房耳にかけ、そして緩く腕を組んで首を傾げた。
「私のことを無闇矢鱈と彼に教えないで下さい、と前にお願いしたような気がするのですけど、私の記憶違い?」
「いえ、あの、智花、智花、怒らないで、お母様が悪かったの。ほら、あまりお喋りすることがないから……つい……」
 ふるふると震えて自分の娘に許しを請うている聡子様があまりに痛ましく、思わず「トモ」と自分の主に声をかけた。
「私が聡子様にお願いしたのです。聡子様はお話をしたがらなかったのに。私が無理を言ったのです。トモ、着替えに行きませんか。お茶をいれますから」
 彼女の視線が私を貫く。トモは決して目を逸らさない。私が嘘をついているのに気付いている。その上聡子様を庇うのが気に入らない、とトントンと右手の人差し指が組んだ左腕を叩く。
「……いいわ。でもお母様、ひとつだけ」
 聡子様の返事を待たずに彼女は続けた。
「その人は私のもので、お母様のものではありません。いくら優しくて、お母様のことを庇ってくれて、伯父様に似ていると思っていても。くれぐれも、どうか勘違いなさらないように」
 言い残すと彼女は踵を返して居間を後にする。スリッパの静かな足音が聞こえなくなって、聡子様はようやく息がつけたというように長く溜息をついた。
「聡子様、泣かないで下さい」
 泣いている聡子様に声をかける。何か謝罪めいたものを小声で繰り返しているようだが、聞こえなかった。
「私も深く聞きすぎました。申し訳ありません」
 聡子様は何も答えない。このようなやりとりももう慣れたことなので、私は立ち上がると台所へ向かった。
 トモと聡子様、別々にポットの準備をする。ぼんやりと窓の向こうを見つめている聡子様に声をかけてお茶を勧める。少し落ち着いたのか、私を見て「ごめんなさいね」と今度は返答が返ってくる。
「いつも智花に怒られてる所を見られてばかり……恥ずかしいわ」
「いいえ。どうか謝らないで下さい聡子様。私はトモに呼ばれているのでこれで失礼します」
 そろそろ着替え終わっている頃合いだろうと彼女用のティーセットを載せた盆を持って退室する。
 彼女の部屋はこの屋敷の玄関から一番離れたところにある。恐らく、代々家長にあたる人物の部屋なのだろうと思う。重い木の扉は分厚くて、その為なのか装飾用なのか、稲穂を象ったシンボルのドアノッカーがある。家紋なのだという。ノッカーを打ち鳴らす。「入って」とくぐもった声が返ってきた。塗り直された金色のドアノブに手を掛ける。
「トモ、お茶です」
「ありがとう、置いておいて。もう少しで終わるから」
 部屋に入ると、甘い香りがして、ああそういえば庭の百合が沢山咲いていたな、ということを思い出す。
 彼女の手の中で瑞々しく咲いていた白百合が死んでいた。
「本当は廊下に活けようと思ったのだけれど」
 こんなことになってしまったわ、と毟った花弁をまた一つ籠に入れて彼女は溜息をついた。



 この部屋は音が遠い。この時期はいつも蝉が大合唱をしていて、母屋にいるとその煩さが耳について敵わないのに、離れに入った途端にそのことを忘れてしまう。雨の音も、街の喧騒も、全てがお祖母様にとって「瑣末ごと」だから、この部屋には何も入ってこないし、影響もされないのだろうと、ずっと昔に思ったことがある。
 お祖母様が私の名前を呼ぶ。
「聞いていますか」
「はい、お祖母様」
 お祖母様に月に一度顔を見せなければならない。
 お祖母様と話す時はいつもこの離れの和室で、私が下座に座る。目を逸らすことは許されないし、姿勢を崩してもいけない、お祖母様の機嫌を損ねてもいけない。
 叩かれるのは痛いから。だからお前は不完全なのだと詰られるから。
 私はお祖母様に望まれて生まれた子供で、お母様もお父様も望んだわけではないから、誰もこの部屋の戸を開けてくれない。
「環樹が死ななければ体の弱い聡子に頼ることもなかったのに、子供を産ませてみれば女の子を産む。聡子は全く庭穂の為にならない。いいですか、貴方しか庭穂を継げないのです。聡子のように弱々しく泣いて縋るような子では困るのです」
「はい、お祖母様」
 お祖母様はいつまでも完璧な「環樹」を失ったことを嘆いて、私にもそれを満たせと言う。
 それが私のすべて。
 何も聞こえない離れだけが、私の世界の全て。
 差し込む光が夕日になって、お祖母様の顔が暗い橙色に陰る。
 お祖母様が口を開いて、私の名前を呼ぶ。自分の子に似た名前。私の為ではなく、家の為を願ってつけた呪いのような名が大嫌いだった。お祖母様はそれを知っていて、でも逃げられないのだと分からせるために私の名を呼ぶ。

 やめて、という声が私でないことに驚いて目を覚ました。
 夢。
 一人がけのソファに座って、サイドボードのランプを頼りに読みかけの本を読んでいたのだった、と思い出す。壁掛けの時計は一時を指している。三十分ほど眠ってしまったようだった。ここは私の部屋ではなくて、彼の部屋だ。そうだった、とベッドを見遣る。
 彼は私の来室を知らずに眠っている。ぼんやりとランプに照らされて涙の筋が光っている。
「また泣いているのね」
 彼は、多分気付いていないけれど、偶にこうして魘されている時がある。私が知ったのも偶然で、部屋の前を通りがかった時にすすり泣いているのを聞いてしまったからだった。
 彼にはあまり喜怒哀楽がない、というのが数ヶ月彼を観察して得た結論だったので、その時は思わず何かの間違いかと思ってドアを開けてしまった。
 春の終わりに彼を拾った。名前をつけずに、ただ置いている。母は最初怯えていたが、彼に記憶も名前もなく感情も希薄で穏やかであることを知ると、次第に慣れていった。
 私が良いのだ、と言えば概ねそのように進んでしまうこの世界は私をずっとここに縛る為に用意されたものだと知っていた。だから、彼も置いておける。
 どこからか迷い込んできた、何も知らない、何もない人間。
 無垢。
 私の世界で彼だけが。
「どうして泣くのかしら。何が恐ろしいのかしら。全部忘れてしまった筈なのに」
 彼は目を覚まさない。偶に苦しそうに呻くだけ。
 彼は夢の中で私の知らない、名前のある誰かでいるのだろうか。
 彼は、その誰かに戻りたくて、それで夢を見ているのだろうか。
 私はそれを。



 夏は盛りを迎えていて、トモの学校も夏休みを迎えた。彼女は変わらず家で時間を過ごすことが多く、 偶に軽石を砕いたり木綿の端切れを切り裂いては川へ流していた。
 以前流した茶器の代わりを私が選んだ。金の縁取りのついたものを選ぶと「貴方、中々ずるいのね」と言われたことをカップを見る度に思い出す。
「トモ?」
作品名:おとめ 作家名:大文藝帝國