おとめ
彼女の自室を訪ねると、そのカップだけが取り残されていて、部屋の主は姿を消していた。窓が引き上げられていて、パタパタとレースカーテンがはためいている。今日は快晴だった。
私のことを待たずに出掛けてしまったのか。何処へ?
一つしか思い当たらなかった。
離れだろう、と私は静かに部屋のドアを閉めた。
離れは玄関を出て、右手の奥に建っている。木々に囲まれてぽつりと建った和風家屋である。
一歩外に出ると、じわりと汗が噴き出してくる暴力的な日差しが溢れていて、蝉が何かを責め立てるように鳴いているのに、ここは生き物の気配が感じられない。静かで冷ややかだった。入り口は引き戸になっていて、音を立てないように開ける。鍵はかかっていなかった。玄関には小さい靴が一揃い、きちんと並べられている。黒い踵の低い靴。トモのものだった。
隣に靴を並べて部屋に上がる。電気が通っていないのか、明かりはついておらず、雨戸の類も閉められているようで中は薄暗い。
廊下を進む。部屋数はそこまで多くない。
私はどうしてもこの離れに来たかった。
彼女の秘密を知っている。けれどまだ知らないことがあるのは明らかで、私はその秘密も抱えたかった。私ならば、私ならば、彼女が微笑むかもしれない、と。
居間らしき部屋の襖を開ける。急に光が差し込んできて思わず目を細めた。
彼女がいた。手本のような姿勢で正座をしている。上座の誰かと向き合っているようにしていて、私からは表情が見えない。上座には誰もいない。いないが、仏壇があった。トモは、仏壇に向かい合って、何かを話しているようだった。
「トモ」
呼び掛ける。返事はない。気付いていないようだった。
「智花」
彼女は気付かない。私はどうしたら彼女が気付くかを知っていた。
「……智樹」
「はい、お祖母様」
凛とした声が耳を打つ。一瞬間があって、彼女が首だけ振り向いた。
「……どうして」
彼女は夢から覚めた時のような目で私を見た。
「トモ、迎えにきましたよ」
トモからの呼び出しに遅れた日、聡子様の手伝いをした時、温室から一冊のアルバムが出てきた。聡子様は困ったように「智花に捨てられてしまうから、ここに隠しているの」と笑った。
糊が剥がれてしまったのか、一葉の写真が落ちたので拾い上げる。七五三の写真だった。袴姿の小さいトモの写真。隣に「智樹 五歳」と添えられていた。
「あの人ね」
「トモ」
「あの人が教えたのね。どうして、いつから知っていたの。何故黙っていたの。何を知っているの。名前だけ?私が跡取り息子として育てられたこと?答えなさい、いいえ、いいえ、もう何も話さないで。その名前は捨てたのに。お祖母様が死んで、ようやく、捨てたのに。どうしてなの、全てが嫌いだわ、お祖母様も、死んだ伯父様も、お祖母様に一度だって逆らえなかったお母様も、少しだって気にかけてくれないお父様も、顔色を伺ってばかりのおどおどした同級生も、この街も、全部、この家も、全てがおぞましい。ここに来てしまう私も。でも貴方だけは」
「トモ、私なら、貴方のことをここから連れ出せます。私は何者でもないから、トモ、私となら何処へだって。貴方を救うことが」
「もういい」
そして、彼女は微笑んだ。柔らかく、美しい笑みだった。
ああ、この顔が見たかったのだ。
清らかで、美しくて、罪人を罰する天使のような。
「お別れのしるしに名前をあげるわ」
了