Wedge
夜が更けて、電気がわざわざ照らさない場所は、全て真っ暗になった。両親はすでに寝室。月子はバルコニーで誰かと電話で話していたが、客間に引っ込んで静かになった。賢二と麻希はまだ起きていて、居間でワインを飲んで話していたが、眠そうな目で片付け始めた。
「兄貴、あんま夜更かしすんなよ」
少し足元のおぼつかない様子で、賢二が言った。麻希が空いたグラスを綺麗に洗って片付けると、すでに二階に上がって行った賢二の後ろ姿を目で追いながら、台所で本を読んでいたおれの肩にぽんと触れて言った。
「本の虫やね。おやすみ」
おれは目だけで応じた。おれも、親父と同じで、同じ本を何度も読む。人生の一部として、その文章が食い込めるだけのスペースを空けている。それが身を助けるときもあれば、逆に足首を容赦なく挫いてくることもある。しばらく本を読んでいると、日付が変わった。おれは真っ暗になった廊下を歩いて、書斎に入った。おれが蔵書の三分の一を共有している、小さな図書館のような部屋。電気を点けなくても、何がどこにあるかは分かるし、カーテンの隙間から月明かりが差し込んでいて、充分に明るかった。
親父の机。その一番上の引き出しは、何度も開けているから取っ手の塗装が少し剥げている。おれはそれを開けて、束になった紙を手に取ると、ぱらぱらとめくった。数枚を残して、ぎっしりと字が書かれている。瀧野正夫と川芝美知恵。でこぼこカップルの、ぎこちない馴れ初め。おれはその話を何度も聞いた。頭の中に様々なイメージがあるのに、口下手で伝えられない親父は、ついに手紙形式にするという手段を思いついた。会えるのに、文通で伝えるのだ。万年筆で書かれた気取った文章は、見返すと面白い。これこそ親父の黒歴史だと思うが、親父は、自分の身に起きたほとんどのことをおれに話している。この手紙にしても、おれは何度も読んだ。だから、少しでも違うところがあれば、すぐに気づく。見覚えのない、手垢の薄い紙が一枚挟まっていることも。おれはそれを開いた。長々と連なる、万年筆の筆跡。
『納豆餅って美味しいよね、とキミは云った』
この手紙が書かれたのは、五十八年前。おれは、スマートフォンでその部分の写真を撮った。良い筆跡だ。実によく書けている。文字を書こうとして、自然とキーボードのホームポジションの形に指が曲がるおれからすれば、神業のような字だ。ただひとつだけ、あり得ないことが書かれている。
瀧野家は、餅を食べる習慣がない。ただし、和菓子は別だ。母は甘党だった。お菓子と言えば歯を折りにかかるような煎餅しか知らなかった親父は、母の好みを探ったり、気に入りそうなものを買ったり、忙しくしていたらしい。この手紙の中身は、その時代の名残。おれが最後に読んだときは、納豆餅とは書かれていなかった。『紅梅餅』が正しい。あのピンク色の、ひと口サイズの和菓子だ。親父はどうして餅を食べなかったか、その理由を自分で忘れてしまっている。それは、高齢になったとき、その習慣が命取りになるからだ。そんな親父が、毎日のように読み返す手紙。その内容は、どこかですり替えられて、なじみのない『納豆餅』というフレーズが頭に残ったのだろう。足音を殺して部屋に戻り、考える。あの少しだけ新しい紙。一枚を差し替えたのは、一体誰だ?
すでに浮かんでいる答えから目を逸らせるように、頭が遠回りしている。おれはウィスキーを買ってくるべきだったと、今さら後悔した。あの達筆は、賢二には無理だ。しかし、母なら。餅を食っている姿を見ながら、顔を見合わせて笑っていた賢二と母。おれは、スマートフォンに撮った、手紙の写真を眺めた。確かに似ているが、じっと見ると、撥ね方の違う漢字がある。『納豆餅』と書き換えた以外は、文字を全て写して、そっくり一枚を差し替えたということになる。
「遺産か……」
おれは思わず呟いた。早い話が、賢二は待ちきれなくなったのだ。親父のことは分かるが、母のことは分からない。賢二は、その逆だろう。おれが知り得ないやり取りを、母と繰り返してきたはずだ。その中で、手紙の話が出たのかもしれない。親父は、自分だけが若い頃に逆戻りして、目の前の母に、文通をしていた頃の美知恵を見ている。それは、別人に対して想いを馳せるのと同じぐらいに、酷なことだと思う。それに親父は、自分が書いた手紙しか読み返さない。母の返事もどこかにあるはずなのに。ずっと不思議に思わなかったことが、今は違和感となって蘇っていた。瀧野家には、瀧野家の不文律がある。子供の頃から、母というのは無口な存在だった。親父の目線の動きだけで何が必要か察知していた様子もあった。痣があったこともある。瀧野グループという王国ができてから生まれたおれや賢二には、到底分からないこと。おれの記憶の中で、母というのは隙を見せることを許されず、どことなく可哀想な存在だった。
頭にその考えが種火として生まれたのは、自分の力だけでどうにかしようとし始めた二十代前半の頃だった。そんな中でも記憶に刻まれているのは、二十四歳のときの一年。カップラーメン生活だったが、今では考えられないぐらいに、おれはぎらついていた。麻希は十九歳で、短大に通っていた。おれは、クリスマスの時期に街頭インタビューという最悪な仕事に駆り出されていた。繁華街で道行く人に『クリスマスはどこに行きますか』と訊くのだ。答えは決まっている。『クリスマスだからここに来た』のだ。麻希もその中のひとりで、インタビューに答えてくれた。しばらくすると帰ってきて、言った。
『もう聞かないの?』
『今度は、どこに行きますか?』
おれは咄嗟に返した。麻希は笑った。おれは、金持ちに間違われることが多かった。ひと目見て、麻希もそう思ったのだろう。付き合い始めて半年で、おれは事務の仕事を口利きした。年が離れているから、彼女だということは伏せた。麻希もその辺の分別はあったが、ちゃんと目的があった。事務の仕事を得て、同じタイミングで採用された新人たちと、歓迎会に出た。もちろんそこには、賢二がいた。名前からおれの弟だとすぐに分かったのだろう。若い上に、一族のレールに乗る役員だ。麻希にとって、フリーライターのおれは、跳び箱の踏切台だった。その後の二十年で逆転するとは思っていなかっただろうが、レールを自分から蹴った当時のおれ自身、あっさりと別れ話を切り出されたときは『そうなって当然か』と思うぐらいのプライドしか持ち合わせていなかった。麻希はピンポン玉だ。乗り換えられたというよりは、兄弟で同じ風邪に罹ったような感覚だった。おれの彼女だったことを知ったとき、賢二はさすがに変な病気にかかったような、苦い顔を浮かべた。ピンポン玉は事後報告の天才だった。でも、ちゃんと可哀想なのだ。それも才能のひとつ。
おれは、年末の集まりで、月子だけがすくすくと育ち、賢二と麻希が少しずつ老けていくのを毎年見ていた。賢二と電話で話したときは、いつも『二人目』の話だった。月子にも、妹か弟がいればなあと、賢二は決まり文句のように語った。おれはいつも『ひとりっ子は気楽かもよ』と返した。心の中では、『実際おれは、お前がいなければ良かったって思ってる』と続いていたが、それを言わないだけの分別はあった。