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オオサカタロウ
オオサカタロウ
novelistID. 20912
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Wedge

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 本当なら、難しい質問をして困らせたくはない。その答えは結局返ってこず、おれは親父の手元にある本に目を向けた。親父は同じ本を何度も読む。それはボケる前から同じだ。幼少時代から本の虫だったおれは、親父と書斎の三分の一を共有している。
「何、読んでんの?」
 答えは分かっている。ここから、あらすじの解説が始まることも。所々、瀧野グループの会長として過ごしてきたエピソードと混ざって、昔なら、最後にはあらすじへと軌道修正されたが、最近はそこで話が終わるときもあった。しばらく聞いた後、親父は言った。
「お前は、俺の代わりに物書きになった」
 かつての、おれの壁。もう通り過ぎたし、今は壁とは呼べないぐらいに低いが、時々訪れる場所。親父は、文章を書く仕事に就くのが夢だった。万年筆にはこだわりがあって、達筆だ。おれも形から入ろうとしたが、安物のシャーペンで書くのが性に合っていて、万年筆を飛ばしてワープロになり、今はレコーダーに録って起こしてもらうこともある。それも人間じゃなくて、はるかに耳のいいAIがやってくれる。
 昼飯になり、広々とした食卓に料理が並んだ。おれが座ると、こんがりと餅の焼けた匂いがした。生姜と砂糖醤油の香りを、納豆が上書きしている。
 食事が始まるとき、賢二の手が滑って箸の先が親父の方を向き、おれは目を合わせた。賢二は慌てて箸を持ち直すと、味噌汁を飲んだ。一瞬動きを止めた空気が、再び動き出した。どんな家にも、ひとつやふたつ、不文律があるものだ。子供の頃、親父に箸先を向けると、必ず拳骨が飛んできた。大人になっても、身構える癖は変わらない。
 親父は、グループを売り飛ばす『羽目』になったのは後継者を育てなかったからだと、関係者の人間によく言われたらしい。厳しすぎたのだと。実際には、そんなことはなかった。箸のマナーにはうるさいが、かなり甘い部類に入るだろう。瀧野の旗が下りた十年前と言えば、おれが今住んでいる家を買った頃だ。年末以外はバラバラで、特に思い出すこともなく過ごしていたから、グループを売ったと聞いたときは、親父はとてつもない額の遺産を遺すことになるんだろうなと思ったぐらいで、おれは自分の周りの世界にひたすら集中していた。これが、後継者候補その一の姿。賢二はすでに役員ではなく、トラックの運転手になっていた。当時七歳だった月子は寂しがったらしいが、賢二がひとりでいる時間の長い仕事を選んだのは、プライドが高いからだろう。運転がさほど好きじゃないおれからすれば考えられないが、性に合っていたのだ。この世捨て人マインドすれすれの所帯持ちが、後継者候補その二。
 瀧野家はバラバラだ。納豆と餅が絡まった物体を食っている親父の姿を見て思うのは、家族も餅に似て、決して都合のいいサイズには切れないということ。下手をすると、火傷するときだってある。昼飯の間、母と賢二が、親父の餅の食いっぷりを見ながら、呆れたように目を合わせて笑った。月子は、おれの食欲があまりないことに気づいているだろうが、そういう小言はこの場では言わない。
 来月、久々に紙媒体に自分の書いた記事が載る。おれから提供できる話題は、そのひとつだけだった。親父が納豆餅を三つ食べて満足し、買ったばかりのビタミン剤のサプリをおれが飲んで、昼飯が終わった。おれと賢二の部屋はまだ残っていて、おれの部屋は客間のように、私物はほとんどない。
 部屋に戻って、ベッドの上に座りながら思い出す。うちの親父、正夫。若い頃は、情緒など全く解さないように見えたらしい。これは、エスカレーターで女子高を出た母の印象。おれは、親父に似ているという。口八丁で、すらすらと文章を書けても、その芯は親父と同じだと、母はよく言った。賢二は、水に沈みかけたとき、口元が水面から出て呼吸ができるようになれば、そのまま立ち泳ぎで残りの人生を過ごそうとするタイプだ。陸がないか、当たりを見回すことはしない。母曰く、自分もそんなところがあるらしい。そして、麻希にもどこか、母と似ている部分がある。他人のはずなのに、不思議なものだ。
 賢二が役員を辞める羽目になったのは、そのだらしなさと、親父の癇癪が半々だった。見合い話が進んでいながら、受付嬢の麻希と付き合っている上に、それが発覚したときには、まだ数週間だったが、お腹の中に月子がいた。大騒ぎになったが、結局、麻希が結婚相手として瀧野家に受け入れられたのは、賢二の性格を家族全員が良く理解していたからだ。つまり麻希は、勤め先の若い役員に言い寄られて、断り切れなかったことがきっかけで瀧野家に嫁いだような、ラッキーかつ可哀想な感じになっている。
 夕方、おれがコーヒーを淹れに台所に降りると、ココアを飲んでいた月子が言った。
「いっちゃん。若い頃な、お金貯めるのって大変やった?」
「軌道に乗ったら、放ってても貯まるよ」
「はあー、成功者の嫌味ですか」
「うそやがな、貯金してんの?」
「うん」
 月子は湯気に目を細めながらうなずいた。おれはコーヒーメーカーにざらざらと豆を注ぎながら、言った。
「バイト?」
「うん、歯医者のバイト。でもなあ、服とか買ったら、あっという間になくなる感じ」
「偉いよ。おれが十七のときは……」
 言いかけたが途中でやめて、おれはケトルを再沸騰させた。冗談抜きで、何でも手に入ったのだ。それが実現されていた場所で、バイト代を貯金している月子にその話をするのは残酷だろう。
「なに?」
 月子が言った。おれは首を横に振った。
「なんでもない。思い出したら恥ずかしくなった」
「黒歴史? 聞きたい」
「言わん」
「なんでー? 乗り越えてないん?」
 月子は良く笑う。明るいのが救いだ。おれはコーヒーメーカーに熱湯を細く注いで、うなずいた。
「乗り越えてないね。ええ大学出て、フリーライターでカップラーメン生活して、今はええかもしれんけど、相当遠回りしてるからね」
「その経験をせんと、分からんこともあるやん」
 おれが諭されているようだが、その方が気は楽だ。貯金についてあれこれアドバイスできるほど、瀧野家は立派な家じゃない。歯医者によく来る、治療中に必ず右手の小指がこむら返りを起こす患者の話を聞いた後、おれはできあがったコーヒーを持って部屋に戻った。
 そう、瀧野家は金の何たるかを知らない。生まれてからずっとそこにあったからだ。金というのは資産であって、日々の日用品を手に入れたり、買い物で浪費したりする存在じゃなかった。親父は、遺産として遺すものを決めている。もちろん、莫大な資産が主役。もうひとつは、親父が若かった頃に使っていたハンマー。傷んでいて、まっすぐ振り下ろしても手が痺れるだけだが、少なくとも、親父が初めてこの業界に入った六十年前には、その右手にあったものだ。
 晩飯は、予約していたレストランへ。外に出れば途端に無口になるのが、瀧野家だ。最後の晩餐のように厳粛で、それは家族の食事と言うよりは、会合のようだ。麻希と月子はややラフな格好をしているが、おれはノーネクタイにしろスーツ姿だし、賢二もそれなりに洒落たポロシャツを着ている。親父が納豆餅をリクエストするんじゃないかとひやひやしたが、コース料理だから口をはさむ余地もなく、淡々と進んだ。
作品名:Wedge 作家名:オオサカタロウ