妖怪の創造
「あなたは村人の他の誰にも言えないと思っている話を私にしてくれた。私がここに来るまでは、この話は墓場まで持っていくつもりでいたんじゃありませんか?」
「ええ、その通りです。このことは口が裂けても言えません。特に既成事実を作ってしまったことが、村の秩序から考えても許されることではありませんからね」
「まあ、村の秩序だけではなく、人間的に許されるかどうかという問題でもありますが」
と、初めて教授は彼に冷たい言葉を掛けた。
それを聞いた彼は、背筋がゾッとしてしまった。初めて、
――この人にも話すんじゃなかった――
と感じたほどだ。
しかし話してしまった。それだけ自分の中で抱えているには限界があったということであろうか。
今日、ここでこんな話になるとは思ってもいなかった。教授と研究のことや言い伝えや伝説について話をして、教授の意見を素直に聞きたいという思いだったのだ。
そこには先入観、つまり自分の犯してしまった罪を語らずに、一般論としての研究者の意見を聞きたいというのが本音だった。
もちろん、こんなことが分かってしまうと、軽蔑されてしまい、話がその場で終了してしまうのも分かっていたので、口が裂けても言えないと思っていたはずなのに、どうして口を滑らせてしまったのか、後悔ではないが、もう戻ってこない時間が口惜しい気持ちであった。
もっとも、こんな話を嫌悪を感じることもなく黙って聞いていると思えない彼は、
――教授が嫌なら、きっと話を遮ってくれるかも知れない――
という一縷の望みがあったのも事実だった。
だが、教授はそんな彼の気持ちとは裏腹に、黙ってその話を聞いていた。目を瞑って聞いていたので、何を考えていたのかもよく分からない。
――自分の過去の何かと比べていたのだろうか?
と彼は感じ、
――教授だって人間だ。人に言えない何かを一つや二つ、抱えているのではないだろうか――
と思ったのだ。
「私は以前、ドッペルゲンガーを見たことがあるんだ」
といきなり教授は衝撃的な話を持ち出した。
あれだけ、
「ドッペルゲンガーを見ると死ぬ」
と言い続けてきたのに、これはどういうことなのか?
「さっきまでの説をご自分で否定なさっているようにしか思えないんですが」
というと、
「そうなんだ、私も死を意識してずっと来たんだが、実際にそのドッペルゲンガーを見たのは何年も前なので、言われている説でいえば、死んでいてもおかしくはないということになる。だから余計にこの状況に納得したいわけなんだが、実は私の妻も同じようにドッペルゲンガーを見ているんだ。妻も死んでいない」
「何かあるんですか?」
「実はドッペルゲンガーを見たと言っても、私が見たのは妻であり、妻が見たのはこの私だったわけだ。もちろん、二人とも出現した場所にいなかったことは証明済みなのだが、お互いに相手のドッペルゲンガーを見るということ自体、稀な気がしないかい?」
「そもそもドッペルゲンガーを見るということ自体稀ですからね。でも、これはどう説明すればいいんでしょうかね」
「さっき、男女で別々の同じような妖怪の話をしたけど、あれが頭に残っていてね」
と教授は言った。
「お互いのドッペルゲンガーがお互いに否定しあったという考えもありではないですか?」
「それは、毒を持って毒を制するというような意味合いもあってのことかな?」
「そうですね。その言葉がこの場合はピッタリくるのかも知れませんね」
「僕たちが、今日ここで出会ったというのもただの偶然ではないような気がしますね」
「人はきっといつも誰かと出会う可能性をずっと持っているものであり、それを偶然という形で生まれてくるから、可能性なのかも知れない。可能性というのは、誰にでもあるから可能性なのではないでしょうか?」
「ひょっとすると、あなたの奥さんはトモカヅキに海に引きずり込まれて死んだということになっていますが、ひょっとすると、トモカヅキと一体になったのかも知れませんね。だから同じ姿を相手に見せるのではないかと考えるのは、無理があるかな?」
教授はそう言って考え込んだ。
「いえいえ、その考えは謎を解く上での重要なカギになるのではないかと僕は思います。なるほど、入れ替わるという発想もあるかも知れませんね」
「そういえば、以前に研究した妖怪で、その妖怪は森の中にいるのだけれど、足に根っこが生えてしまっていて、身動きが取れない。身動きが取れないまま何千年もそこに立ち続けているというが、ある村人がその妖怪に遭うんだ。そこで妖怪は取り出した水晶の玉を彼に見せるのだが。それを見た村人は水晶に引き込まれて、二人は入れ替わってしまう。そして妖怪は彼に言うんだ。『これで自由になれる。お前も次何百年か何千年かしてやってくるやつに同じことをすれば自由になれる』と言ってその場を立ち去るんだ。ここでは歳を取ったりしないんだろうね。私は今まで話をしている中で、辿り着いた意識として、この話を思い出したんだよ」
それを聞いて、彼はゾッとしたものを感じた。自分がかつて引き起こした妻に対しての罪を思い起こさずにはいられないと感じたのが、ゾッとした気分になった一番の理由であろう。
「じゃあ、この妖怪もこの場所でじっとしている限り死ぬこともなく安全ではあるが、かといって身動きができない生殺しの状態にされているということですね」
「そうなんだ。だからいいことの裏には悪いことが潜んでいたり、悪いことの裏にはいいことが潜んでいる場合もあるということだよ。だから、一概に物事をすべて善悪で片づけることはできないのかも知れないな」
教授はそう言って、また盃を口に運んだ。
二人はそんな会話をしながら、それぞれに何かの結論を得ていたようだ。お互いにそのことを口にすることはなかったが、口にすることは余計なことであり、もし相手が自分と同じくらいまでの結論を得ることがあったとしても、それは考えが近くないことを悟っていた。
二人の宴はそこまでだった。どちらからともまくお開きを宣言し、相手に異論があるはずもないことを承知していたことで、せっかく深いところまで話をしたはずなのに、そのところどころで重要に感じていたことも、すっかり忘れてしまっていた。
別に酔いに任せて忘れてしまったわけではない。まるで夢でも見ていたかのように思い出すことができないのであった。
教授はその後、妖怪についての論文を発表し、それなりの評価を得たが、しょせんは学説でしかない。証拠としては限りなくないに等しいことで、人によっては、ほら吹き呼ばわりする人もいた。
息子の方は、立派な網元になったのだが、その時には例の断崖絶壁に近づくことは許されず、祠を封印し、遠くからお祈りすることで、村人に神格化するように話していた。
網元になった彼への村人からの信頼は絶大で、村はずっと災害にも遭わずに平穏無事な時間が過ぎて行った。
「妖怪のことを話す人もいなくなったな」
そう言って、独り言ちた彼だったが、教授と話をしていた時の彼は若く見えたが、四十を過ぎていた。