妖怪の創造
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。ご了承願います。
海に巣くう妖怪
時は大正、世の中は動乱の時代であり、世界では未曽有の大戦が起こったり、国内では帝都を襲う、これも未曽有の大震災があったりと、激動の時代であった。
しかし、庶民の中では自由な風潮も出かかっていて、デモクラシーの発想、商人の街の発展と、短い時代ではあったが、よくも悪くも激動に変わりはなかった。
それも一部の都会でのことであり、大部分の田舎や貧困層は、本当にその日の暮らしをいかに生きるかということで精いっぱいでもあった。昭和初期に訪れる世界恐慌の煽りを受けることのないこの時代は、まだ希望もあったのかも知れない。田舎の人にはそれもほとんど関係なかったのではないだろうか。
M県は、大都市を抱える県の隣に位置しているが、基本的には貧困層の多い地区で、農業というより、漁業を中心に生業を立てる人の多い地区であった。童子はまだ鉄道も通っていないところが多く、獲れた魚を大都市に輸送することが困難だったため、地元民の自給自足に使われることが多かった。そのため、漁業だけではなかなか収入という意味で県や村が潤うことも少なく、何か代表的な産業でもなければ、貧困からはなかなか抜け出せなかった。
ただ、この地域は幸いなことに、県の中腹あたりの半島で、真珠の養殖が可能であった。
阿古屋貝という真珠を生産するために必要な貝が分布するこの地域で、実際に養殖が盛んにおこなわれるようになり、このあたりの代表的な産業として発展した。そのおかげで、何とか県は、最悪の貧困にあえぐこともなく、漁業を中心とした産業も、衰えることなく発展していった。
昔から、養殖真珠や、貝類、階層などを採取するために海に潜る「海女」という職業があったが、産業として充実してきた。実際に海女を一目見ようと、他県からやってくる人もいたり、体験させるイベントのようなものも細々と行っている団体もあった。
あからさまにやると、県や国から違反行為として摘発される可能性があったので、あくまでもひそかにではあったが、それが地元の文化を根付かせるためということで、取り締まるはずの県では見て見ぬふりをしていたというのも話としてはあった。
ただ、この地域の漁業は、別に一致団結して大きなことに当たっていたわけではない。あくまでもそれぞれ個別の地域で独自に行っている漁業が主であり、縄張りに関しても、それぞれの地域で厳格なものになっていた。
例えば、故意、過失を別にして、相手の縄張りに入って漁をすれば、自分たちの間で裁きがあり、下手をすれば、獲ってきた獲物を売りに行った場合、買い取ってくれないという差別に見舞われることもあったくらいだ。
ただ、だからと言ってそれぞれの地域が閉鎖的だったというわけではない。一応仕切られた縄張り内でキチンとルールさえ守ってれば、隣の地区で困ったことが起これば、できる限りの援助も行ってきた。
「わしらは、持ちつ持たれつだからな」
と言っていたが、これも厳格なルールが存在するからできることに他ならなかった。
ルールなくして、持ちつ持たれつということになると、なあなあのなれ合いになってしまい、秩序が保たれることはないだろう。
実際に漁業についての決まった法律が存在するわけではない。お互いに規律を守るためにはお互いに守るべきルールを決めておく必要がある。
それには厳格なものでなければいけないという事情もあり、それが漁村という狭い領域を最大限に生かせるためには必要なものであった。
このような形になったのは、この県における海岸線の地形によるところが多いのではないだろうか。
この県の海岸線は、でこぼことしていて、ちょうどうまい具合にほぼ同じくらいの大きさの入り江がたくさんできている。まるで全部の歯が抜けてしまった後の口を開けたような感じだが、ちょうどその大きさが一つの集落を作るのにいい塩梅に形成されていたのである。
家屋にしてどれくらいであろうか? 数十人が暮らすだけの集落が作れるくらいの入り江が他の地区と一線を画した形でできるので、他から余計な詮索をされることはない代わりに、領域が曖昧でもあった。だから厳格な領域を設定することで、お互いが険悪になることを防いだやり方が、お互いの地域で助け合うというやり方を生み出したというのは、長年の時代の流れによる、
「人間の知恵」
だったに違いない。
獲れる獲物は豊富だった。実際に県の主要産業は漁業であり、魚のほとんどは県内での消費が多かったが、真珠の生産により、かなりの利益を得ていたことはハッキリしていた。
だが、それも明治時代の後半以降のことであって、真珠が摂れると言っても、明治時代の初期の争乱の時代には、なかなか流通が思わしくなかった。
なぜなら、真珠の需要の多くは外国であった。日本の商社が買ったものを貿易として海外の商人に売ることで商社は潤っていたが、生産者である漁村にまで、その利益が還元されることはほとんどなかった。
だが、真珠の生産がなければ、ほとんどの漁村は立ち行かなくなり、貧困漁村など、あっという間に干からびてしまうのは明らかであった。
そんな漁村が連なる中に、足立村という漁村があった。そこは、県のほぼ中心部にあり、さらにその場所は、
「小さな半島の入り口」
の様相を呈していた。
前述のように、ここの漁村は集落ごとに小さな入り江を目印に、大小さまざまな大きさの集落があるが、それほど大小の差が激しくないのも特徴だった。
そんな海岸線から突き出した半島は、それほど大きなものではなかったが、先に行くほど鋭利になっていて、地図で見ると、まるでナイフのようになっていた。
さらに、その半島すら入り江が込み入っているので、完全に、
「刃こぼれしたナイフ」
だったのだ。
その半島が付きだしたちょうど足立村があるあたりは、半島の付け根の上の方も少し盛り上がった地形をしていて、そのため、足立村と他の村を仕切る境界である「入り江」のまわりも、さらに大きな入り江があり、まるで内海を持っているかのような地形が特徴だった。
その地形のせいで、内海と外海の境界があることから、内海と外海とで獲れる魚の種類が違っていた。それは、足立村には好都合で、自分たちが食するものと、売りに出すものとを選別でき、内海で獲れるものを自分たちで食し、外海で獲れるものを商売品として出す。そのおかげで、消費するものにお金がかかることはなく、外海で獲れたものがそのまま利益になる時代が続いていた。
海に巣くう妖怪
時は大正、世の中は動乱の時代であり、世界では未曽有の大戦が起こったり、国内では帝都を襲う、これも未曽有の大震災があったりと、激動の時代であった。
しかし、庶民の中では自由な風潮も出かかっていて、デモクラシーの発想、商人の街の発展と、短い時代ではあったが、よくも悪くも激動に変わりはなかった。
それも一部の都会でのことであり、大部分の田舎や貧困層は、本当にその日の暮らしをいかに生きるかということで精いっぱいでもあった。昭和初期に訪れる世界恐慌の煽りを受けることのないこの時代は、まだ希望もあったのかも知れない。田舎の人にはそれもほとんど関係なかったのではないだろうか。
M県は、大都市を抱える県の隣に位置しているが、基本的には貧困層の多い地区で、農業というより、漁業を中心に生業を立てる人の多い地区であった。童子はまだ鉄道も通っていないところが多く、獲れた魚を大都市に輸送することが困難だったため、地元民の自給自足に使われることが多かった。そのため、漁業だけではなかなか収入という意味で県や村が潤うことも少なく、何か代表的な産業でもなければ、貧困からはなかなか抜け出せなかった。
ただ、この地域は幸いなことに、県の中腹あたりの半島で、真珠の養殖が可能であった。
阿古屋貝という真珠を生産するために必要な貝が分布するこの地域で、実際に養殖が盛んにおこなわれるようになり、このあたりの代表的な産業として発展した。そのおかげで、何とか県は、最悪の貧困にあえぐこともなく、漁業を中心とした産業も、衰えることなく発展していった。
昔から、養殖真珠や、貝類、階層などを採取するために海に潜る「海女」という職業があったが、産業として充実してきた。実際に海女を一目見ようと、他県からやってくる人もいたり、体験させるイベントのようなものも細々と行っている団体もあった。
あからさまにやると、県や国から違反行為として摘発される可能性があったので、あくまでもひそかにではあったが、それが地元の文化を根付かせるためということで、取り締まるはずの県では見て見ぬふりをしていたというのも話としてはあった。
ただ、この地域の漁業は、別に一致団結して大きなことに当たっていたわけではない。あくまでもそれぞれ個別の地域で独自に行っている漁業が主であり、縄張りに関しても、それぞれの地域で厳格なものになっていた。
例えば、故意、過失を別にして、相手の縄張りに入って漁をすれば、自分たちの間で裁きがあり、下手をすれば、獲ってきた獲物を売りに行った場合、買い取ってくれないという差別に見舞われることもあったくらいだ。
ただ、だからと言ってそれぞれの地域が閉鎖的だったというわけではない。一応仕切られた縄張り内でキチンとルールさえ守ってれば、隣の地区で困ったことが起これば、できる限りの援助も行ってきた。
「わしらは、持ちつ持たれつだからな」
と言っていたが、これも厳格なルールが存在するからできることに他ならなかった。
ルールなくして、持ちつ持たれつということになると、なあなあのなれ合いになってしまい、秩序が保たれることはないだろう。
実際に漁業についての決まった法律が存在するわけではない。お互いに規律を守るためにはお互いに守るべきルールを決めておく必要がある。
それには厳格なものでなければいけないという事情もあり、それが漁村という狭い領域を最大限に生かせるためには必要なものであった。
このような形になったのは、この県における海岸線の地形によるところが多いのではないだろうか。
この県の海岸線は、でこぼことしていて、ちょうどうまい具合にほぼ同じくらいの大きさの入り江がたくさんできている。まるで全部の歯が抜けてしまった後の口を開けたような感じだが、ちょうどその大きさが一つの集落を作るのにいい塩梅に形成されていたのである。
家屋にしてどれくらいであろうか? 数十人が暮らすだけの集落が作れるくらいの入り江が他の地区と一線を画した形でできるので、他から余計な詮索をされることはない代わりに、領域が曖昧でもあった。だから厳格な領域を設定することで、お互いが険悪になることを防いだやり方が、お互いの地域で助け合うというやり方を生み出したというのは、長年の時代の流れによる、
「人間の知恵」
だったに違いない。
獲れる獲物は豊富だった。実際に県の主要産業は漁業であり、魚のほとんどは県内での消費が多かったが、真珠の生産により、かなりの利益を得ていたことはハッキリしていた。
だが、それも明治時代の後半以降のことであって、真珠が摂れると言っても、明治時代の初期の争乱の時代には、なかなか流通が思わしくなかった。
なぜなら、真珠の需要の多くは外国であった。日本の商社が買ったものを貿易として海外の商人に売ることで商社は潤っていたが、生産者である漁村にまで、その利益が還元されることはほとんどなかった。
だが、真珠の生産がなければ、ほとんどの漁村は立ち行かなくなり、貧困漁村など、あっという間に干からびてしまうのは明らかであった。
そんな漁村が連なる中に、足立村という漁村があった。そこは、県のほぼ中心部にあり、さらにその場所は、
「小さな半島の入り口」
の様相を呈していた。
前述のように、ここの漁村は集落ごとに小さな入り江を目印に、大小さまざまな大きさの集落があるが、それほど大小の差が激しくないのも特徴だった。
そんな海岸線から突き出した半島は、それほど大きなものではなかったが、先に行くほど鋭利になっていて、地図で見ると、まるでナイフのようになっていた。
さらに、その半島すら入り江が込み入っているので、完全に、
「刃こぼれしたナイフ」
だったのだ。
その半島が付きだしたちょうど足立村があるあたりは、半島の付け根の上の方も少し盛り上がった地形をしていて、そのため、足立村と他の村を仕切る境界である「入り江」のまわりも、さらに大きな入り江があり、まるで内海を持っているかのような地形が特徴だった。
その地形のせいで、内海と外海の境界があることから、内海と外海とで獲れる魚の種類が違っていた。それは、足立村には好都合で、自分たちが食するものと、売りに出すものとを選別でき、内海で獲れるものを自分たちで食し、外海で獲れるものを商売品として出す。そのおかげで、消費するものにお金がかかることはなく、外海で獲れたものがそのまま利益になる時代が続いていた。