短編集79(過去作品)
幻の作家
幻の作家
串原保は、自分の才能に気付き始めていた。だが、それが分からずに、躁鬱状態に陥ることが多くなっていた。
人との対話が嫌で嫌でたまらないのだが、会話の中に見え隠れする私利私欲が見えてきそうで嫌なのだ。
今まで綺麗なものばかりしか見てこなかったように思う。小さい頃から比較的恵まれて育ったことに影響しているのかも知れない。両親は健在で、父親が金融関係の仕事をしていることもあってか、どちらかというと裕福である。
だが、父親が金融関係の仕事をしている人は皆そうであるように、厳格であった。まわりの父親を知らない時は、これが本当の父親像だと思っていたので諦めがあったが、友達の家に遊びに行くようになって自分の父親には決してないと思っていた優しさを垣間見たことはかなりのショックだった。
――知らなきゃよかった――
と思うようになって、知らず知らず、父親に対して反発心が芽生えてきたようだ。
人前だから穏やかな顔をしているだけなんだと、自分に言い聞かせてもいた。
母親は実に無口な人だった。友達の母親のように、どうしてもっとにこやかにできないんだろうと思ったが、それも父親の権威と厳格さで仕方のないことだったに違いない。実際に母が近所の奥さん連中とまともに話しているところなど見たことがない。それは保が物心ついたころからのことである。
したがって家庭での会話はあまりない。保にしても学校から帰れば部屋に閉じこもりっきりだった。何をするというわけでもなく、ただテレビがついていたり、ステレオがついていたり、そんな毎日だった。
天井の模様だけがクッキリと瞼の裏に焼きついている。嫌というほど見つめた天井、そこには遠近感を感じさせないものがある。その天井も次第に大きく見えてきていることに気付いたのはいつだっただろうか。きっと普通なら気付くようなことではないだろう。それだけいつも見ている証拠なのだ。
あくまでも漠然と見ているだけで凝視しているわけではない。だからこそ、普通は気付くはずのないようなことを、ふとしたことから気付くのではないだろうか。
会話のない家に帰っても、自分の部屋だけは別だった。同じ家の中ではないようにさえ思えるくらいである。小さい頃からずっといる部屋だが、それほど模様替えをした記憶もない。遊ぶ対象が変わったくらいだろう。
部屋に片付けきらないほどのおもちゃがあった。それがいつの間にか文庫本になったのだ。漫画をあまり読むことはない。友達に借りて読んだり、喫茶店で読んだりすることはあっても、買ってきてまで読もうとは思わないのだ。
もったいないという気持ちが強い。
漫画だと少々厚い種類のものでも数時間もあれば一冊を読破することができるだろう。だが文庫本といえばそうもいかない。どんなに早く読んでも漫画より早く読めるはずはないのだ。ゆっくり読んでいると数日は掛かるのだ。
どちらも数百円ほどのものなのだが、比較対象があることでもったいないと思うのだ。
保は小さい頃から計算高い少年だった。算数が好きだったこともあってか、いつも何かを考えていて、結論が見つかるまで考え続けたものだ。小さい頃の考えは後から思うと単純に思うものだが、その頃はすべてのものが果てしなく何かに繋がっていると思っていたので、繋がる何かを探していたような気がする。
道を歩いていても、必ず目的地にたどり着けるものだと疑わなかった。知らない土地にたどり着いたこともあったが、夢を見ているのではないかと感じたくらいである。その時はおじさんと一緒だったので安心できた。おじさんは父のように厳格ではなく、少し頼りなく見えるが、保にとっては頼もしかった。優しさというものが余裕を与えてくれるのだと、大きくなって感じた。
おじさんはいろいろなところに連れていってくれた。おじさん夫婦に子供はいない。保は二人兄弟の長男で、弟は年が八つも離れていた。
「本当は君のような子供がほしかったんだよ」
と遊びに連れて行ってくれた時に、必ずおじさんが口にした言葉だった。
保はおじさんからそう言われるたびに、
――ああ、どうして僕はおじさんの子供として生まれなかったんだろう――
と自分の出生を恨みさえした。おじさん夫婦は傍目にも仲がよく、自分の親とは全然違う。仲がいいことだけしか表に出てきていないが、暖かさを感じることのできる大人のもとで育ちたいと思うのも、それだけ両親との比較にギャップを感じたからだ。
「保君は頭がいい少年だね」
おじさんからよく言われた。頭がいいという言葉は漠然としていて普通ならよく分からないだろうが、保つには分かる気がした。
――きっと計算高いところを見ているからだろう――
と思えるのだ。それが嬉しいことなのかどうなのか、子供の頃の保には分からない。
――大人になるにつれ、計算高くなっていくのかな?
それも少し信じられない。経験はいろいろと積めるだろう。しかし、それが生きていく上での計算ができるようになると言えるのだろうか? 強かさが身についていくことに大人になるという意味を見出せるかどうか、それが問題だろう。
大人になってからというもの、
――子供の頃のような感受性をなくしてしまったのかな?
と感じていたが、考えてみれば子供の頃も、それほど感受性の強い方ではなかっただろう。
友達と一緒に遊んだという記憶はほとんどない。部屋にいて本を読んでいることが多かった。友達と一緒に遊ぶことが幼稚にも見えたし、子供のくせに、
――発展性のないことだ――
などと今から思えば生意気なことを考えていた少年だった。
確かに文庫本を読んでいると、子供では分からないことがたくさん書かれている。当然大人社会と子供社会の差が歴然としているため、読んでいる内容を理解できないところがあるのは当たり前だ。
もちろん最初から理解しようなどと考えて読んでいるわけではない。だが、それだけ想像力も果てしないものがある。中には誤解もあるだろうが、想像することが楽しかったのだ。
まわりの友達に対する優越感。これが大きかった。本を読むということが自分の中で高貴な趣味だと位置づけていた。理解できなくともずっと読み続けていたのは、その気持ちが絶えずあったからだ。
ある程度感覚が麻痺していたのかも知れない。読んでいていろいろなジャンルの本を読み漁ったが、その中でも読んでいて辛い本もあった。特にドロドロした人間関係も、想像しただけで思わず顔をしかめてしまいそうな内容もあったりした。それでも最後まで読むことをやめなかった。
――それこそ好奇心というものだろうか?
男女関係や、不倫のような愛憎絵図が絡み合ったような内容は、想像以上に顔をしかめたくなるような内容だった。しかし読んでいて、
――どうせ他人事じゃないか、しかもフィクションだし――
と思うことで、読破できたのだろう。SFやホラーのように気持ち悪さがあまり身近に感じられないジャンルの方が、却って読みやすかったりしたものだ。
作品名:短編集79(過去作品) 作家名:森本晃次