八九三の女
[ユキ]
「大して飲んでねえから心配すんな」
肩を貸す、運転手兼社員(以下、社員)が
玄関先に出迎えたパジャマ姿の少女に小声で伝える
少女との夕飯を断った社長は社員達と飲み食いして来たようで
夜も更ける頃、珍しく微酔い加減で帰宅した
社長は社員の肩を抜け床に座り込む
俯いたまま、両手で垂れた前髪を掻き揚げると掠れた声で呟く
「気を付けて帰れ」
「あざーっす」
社員は小脇に抱えていた、社長の外套を少女に手渡す
「起きてて、大丈夫なんか?」
明日は平日だ
普通に登校日だが少女は頷く
「そっか、ありがとな」
自然と出た労いの言葉だった
社長と少女の共同生活は順調?だと思う
なんやかんやで少女に身の回りの世話をさせているが
社長は社長で自立力高めなので手間はない
それでも少女は自分の役割を熟している
朝、送迎に訪れた自分は少女が拵えたであろう味噌汁を温める
社長の姿を幾度となく目撃している
ついでに何気なく確認した
カウチソファの上に乱雑に広がる、毛布と枕
今さっき、起きた状態のソレを見て社員は改めて思う
社長が女を食い物にする事はない、と
項垂れたままの社長に社員は
「今日はご馳走様っす、お疲れ様っす」と、頭を下げる
左手を挙げて応える社長に再度、頭を下げ玄関を出て行く
間を置き、ゆっくりと玄関扉に近付き施錠する少女に
革靴をすっぽ抜くように脱ぐ、社長が言う
「遅くなって悪い」
「先に寝てて構わない」
インターホンを鳴らさずに帰宅したにも関わらず
開錠の音で気付いたのか
将又、寝ずに待っていてくれたのかは分からないが
余計な気遣いを掛けたのは事実だ
抑抑、酒等呷る気はなかったのに
古参社員の突然の結婚報告に気が緩んでしまった
好きな人がいて
好きな人と結婚する
表街なら当たり前の事だろうが
裏街には当たり前の事が極端に少ない
それでも幸せになろう、と誓う二人を祝わずにはいられない
ゆらりと立ち上がる社長は壁に手を付き
覚束ない足取りで壁伝いに進み、洗面室へと入っていく
取り合えず受け取った外套をハンガーに掛け
玄関先のコートラックに吊るし、慌てて後を追い掛ける
扉の前に来ると中からシャワーの音が響いてきた
少女は酔っ払っているのに、と気が気じゃない
大して飲んでない、と言う社員の言葉を信じたいが
叔母でもこんな酔っ払う姿を見た事はない
少女は立ち去るにも立ち去れず
扉の前で途方に暮れていると、いつしか水音が止んでいた
続いて、浴室の折れ戸が開く音がする
一旦、安心して小走りで寝室に戻るが
それでも社長が途中で倒れたり、眠り込んでしまわないか
と、布団に潜ってからも耳を立てて様子を窺う
念の為、寝室の引き戸は開けてある
そして一応、カウチソファには寝床の準備をして置いたが
果たして無事、辿り着けるかどうか
暫くして、廊下を素足で歩く足音がする
真冬の床に素足は有り得ないと思うが
社長の部屋には中央暖房が設置、稼働していて寒さは感じない
居間のカウチソファで
社長が毛布一枚で眠れるのも、コレのお陰だ
そうして、鈍い足取りで寝室に辿り着く社長に
少女は驚いたが愈愈、その酔っ払い加減が心配になってきた
無造作に布団を捲り上げ、隣に倒れ込む
探すように腕を伸ばした先、少女に触れると強引に抱き寄せる
毎度の事だ
慣れた
タオルドライをしただけの、髪の先が濡れているのか
肩に触れて冷たい
そう思ったのも束の間
吐息の熱さに少女の身体が強張る
社長の唇が肩に触れ首筋へと滑っていく
こそばゆい感覚に背筋が震える
離れようにも社長の腕が身体に絡み付き、身動き出来ない
耳朶を甘噛みされた瞬間、少女は声を上げた
その声に反応したのか、社長の動きが止まる
肩越しに自分の顔を覗き込む視線を感じながら瞼を閉じる
耳元で名前を呼ぶ
「ユキ」
無意識に息を殺す
咽喉が震えて声が漏れそうだ
堪えるように握り締めた手が痺れてくる
「ユキ、会いたかった」
再び名前を呼び、そう呟く社長が後頭部に頭を埋める
軈て、健やかな寝息を立て始めた
それはいい
それはいいが、心臓ばくばくの自分は眠れない
自分勝手に満足して、眠っている社長が意味分からない
取り合えず自分はこんな状態じゃ眠れない
今夜はカウチソファで眠ろう
そう思い、社長の腕を解こうとするがびくともしない
何回か試すが何故か、より一層強く絡み付く
少女は長い溜息を吐き、諦めて大人しく眠る事にした
そうして瞼を閉じて気が付く
初めて自分の名前を口にした社長だが
呼んだのは、自分の名前ではないような気がする
ユキ、会いたかった