八九三の女
[庭園]
「頼みがある」
「いいよ」
真昼間の倶楽部
昼夜逆転所か、境目がない裏街では二十四時間営業が通常だ
需要と供給
中中の繁盛振りだ
人波を躱す社長は広場にも特別席にも目をくれず、バーカウンターへと向かう
古参バーテンダーの姿が見当たらない
仕方なく若手バーテンダーに声を掛けようとした瞬間
「お隣、失礼しま~す」
「でもってボトル、入れていいですか~?」
「入れろ入れろ」と、ぞんざいに頷く社長が目当ての店長を前に言う
「頼みがある」
「いいよ」
上記の会話である
食い気味で返事をする店長に社長が僅かに眉根を寄せた
「あ?」
「未だ、なにも言ってねえだろ?」
「そうね、でもね」
「俺がお前の頼みを一回でも断った事、ある?」
言われて暫し、考える
「抑、お前に頼み事した事、一回でもあるか?」
お互い、お前の物は俺の物で通している関係だ
お互い、頼み事等しなくとも罷り通している関係だ
「ない」
にやりと唇を歪める店長に社長も笑い捨てる
それでも珍しく相談事をしてきた社長の頼みだ
断わる理由は、ない
先代の遺品整理、形見分けの相談をする
社長の話しを聞きながら店長は背広の内ポケットから
ハードパックの煙草とジッポライターを取り出す
カウンターテーブルに転がる
それ等を暫し眺める店長は間違いに気付いたのか
逆の内ポケットを探る
「で、何時がいいの?」
「俺も暇じゃねえけど、お前も暇じゃねえだろ?」
てっきり日程管理をしている携帯電話が出てくると思いきや
真逆の手帳がお披露目された瞬間、社長は言葉もなく見つめる
手帳のペンポルダーに差し込まれた鉛筆の尻がガジガジに齧られていた
「再発しちゃった、てへぺろ」
喫煙者が禁煙しても非喫煙者にはなれない
それと同じ事だ
長い事、抑えてきた欲求は
何時ぞやの思い出話が切っ掛けになったのか再び、解放された
改めて悪い事したな、と反省する社長を余所に
悪怯れる様子もなく鉛筆の尻を齧り出す
咄嗟に腕を伸ばす社長
「おい」
「怒ると思うでしょう?」
「あ?」
店長の言葉を聞き流す社長は
無意識に古参バーテンダーを探し、バーカウンター内を見遣る
が、今日は見当たらない事を思い出し胸を撫で下ろす
「ああ」
「それが怒らないのよ」
「あ?」
「揶揄う野良犬が留守なら、お好きなだけどうぞ、だと!」
古参バーテンダーの言葉通り
社長の目の前で思う存分、鉛筆を齧る店長が楽しげに言う
矢張り、そうか
古参バーテンダーも親父殿も幼馴染の癖を咎めたい訳ではなかった
それが原因で言い合う自分達を見たくなかった故の、対処だ
「でさ、俺さ」
「あの日の事、もうちょっと思い出したんだよね」
「ん?」
「いなかったな、って」
曲線の煉瓦敷の小径が導く
なだらかな芝生の丘を花の香り豊かな風が抜ける、英吉利式庭園
園芸が趣味の幼馴染の母親が
色取り取りの花を花壇に寄せ植えする横で
芝生に寝転がり、お絵描きに夢中な幼馴染
悪戯に風が頁を捲る、お絵描き帳
短くなった、お気に入りの色鉛筆の尻を齧りながら考え込む
自動車を描こうか、飛行機を描こうか
それとも母親の好きな、花を描こうか
背後の四阿では向かい合う籐製のガーデンソファに腰掛ける
親父殿と古参バーテンダーの談笑が届く
なのに俺は悲しかった
空は青く、芝生も青く
お袋さんは陽気で親父殿は面白く、古参バーテンダーは優しい
目の前の幼馴染は俺の半身だ
なのに俺は唯唯、悲しかった