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八九三の女

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[駄菓子屋]



朝、晩自炊するならば
弁当持参が理想だが歓楽街の裏街には誘惑が多過ぎた

結局、運転手兼社員(以下、社員)は
鼻に芳しい香辛料の匂いに誘われ、咖喱屋に黒星を喫する

抑、煮込み料理は一度、作ったら最後
二、三日は食う羽目になる

美味いが飽きる

普段なら腹拵えの後、昼休み一杯
軽く、裏街をぶらついて腹熟しする所だが生憎、天気が良くない

春というのに風が冷たい
「ちょっとそこまで」の感覚で上着を着て来なかったのも良くない

そうして昼休み明け、十五分前に事務所に着くと
偶然にも見掛けた社長が桑茶色の紙袋片手に自室に入って行く所だった

そういえば、と社員は頭を傾げる

昼休みから戻って来ると毎回
社長机の上には、あの桑茶色の紙袋が畳まれて置かれている、気がする

否、几帳面に畳まれて置かれている

それを袖机の引き出し
確か一番下の引き出しに仕舞うのを見た事がある
覗くつもりなく覗いた中身は畳まれた桑茶色の紙袋で一杯だった

その、中身が気になる

社員は立てる人差し指を口元に当てると
電話番の社員、弁当派の女性社員に向けて「しー」と、お願いする

忍び足で事務室を横切ると
開かれたままの社長室の扉に張り付き、こっそり室内を窺う

丁度、応接ソファに腰掛ける社長が
桑茶色の紙袋を引っ繰り返し、ローテーブルに中身を打ちまけた

バラバラ音を立てて山を築く物体に
隠れているのも忘れて社員が声を上げながら、傍らに来る

「なんすか?それ?」

「古銭チョコ」

値段は五円程度
22粍程度の古銭を象った、実物よりも一回り大きめの薄型チョコだ

突然の社員の乱入にも動じる事なく社長が答える

いや、量よ量

目の前の堆い、古銭チョコの山を眺めて社員が呟く

「どこで買うんすか?これ?」

「駄菓子屋」

そうして一枚、古銭チョコを摘まむ上げる社長
慣れた手付きで包みを剥くと古銭に模したチョコを口に放り込む

勿論、丸めた包み紙はズボンのポケットにイン!だ

「え?どこの?」

「知らねえのか?クマって名前の看板犬がいる」

多分、知る人ぞ知る隠れ家だと思う
裏街の住人歴が浅い自分には辿り着けそうにない

「え、連れてってくださいよ」

「ん?」

「俺も駄菓子、食ってみたいっす」

「食ってみたい?」

聞き返す社長に、社員が真面目な顔で頷く

「食った事ないっす」

マジか
仕方ねえなあ、とばかりに気怠く立ち上がる

同時に今まで見る事なく過ごしてきた
曾祖父と祖父の遺影写真が飾られている、その壁を仰ぐ

「もう少し」

「え?」

もう少ししたら
長い事、手付かずのままの祖父の遺品を整理しようと思う
形見分けを待ち侘びる親父殿にも申し訳ないし

だが、そう思いつつも先延ばすのが自分の悪い癖だ

言った切り、押し黙る社長に
社員は大人しく次の言葉を待つ事にする

時時、トリップするのは社長の仕様だ
慣れればいいだけの話し

そうして癖のある前髪を整え始める社員に漸く、社長が言う

「やるよ」

「え?」

「用事が出来た、残りはやるよ」

ローテーブルの古銭チョコを一枚もう一枚、摘まみ取って
慌ただしく社長室を出て行く

残された社員が
残された古銭チョコの山を見下ろし、叫ぶ

「いや!こんなに食えないっすよ、俺!」

社員の叫び声を聞き付け
電話番の社員、弁当派の女性社員が社長室を覗き込む

作品名:八九三の女 作家名:七星瓢虫