八九三の女
[最後の審判]
「十王信仰、って知ってるかい?」
挨拶を済ませ、カウンターチェアに座るや否や親父殿が切り出す
親父殿は多忙だ
必要以上に避けなくとも会う機会は極端に少ない
「十王…?」
裏街は多人種故、宗教も多様だ
真逆、基督教徒の親父殿の口から仏教用語が出るとは思わなかった
元元は無宗教だったらしいが結婚相手の
つまり幼馴染の母親が異国の出身で基督教徒だった為
親父殿も入信したと聞いた
目の前の好好爺然の親父殿を眺めて
「案外、浪漫的な人なんだな」と、思うも口が裂けても言えない
ブランデーグラス片手に尋ねる親父殿
話しの前に自分にも飲み物を勧めてきたが、とてもじゃないが
咽喉を通らない事は分かっていたので一度目は断った
そうして素直に答える
「ごめんなさい、知らない」
知らない事を知らないと正直に言えば
目の前の親父殿は面倒臭がらず、理解するまで教えてくれる
子どもにとっては物凄く有難い存在だ
それはきっと、大人になっても変わらない
自分より多くの事を見聞し、熟知している存在は貴重だ
親父殿は徐にカウンターチェアを回転させ社長に身体を向けると
社長が腰掛けるカウンターチェアも自分に向けるように回す
そうして膝と膝を突き合わせる
親父殿の両腕の手根には十字架の入れ墨が彫られていた
子どもの頃の記憶だ
幼馴染とした悪さを隠す為、嘘を吐いて誤魔化す度に
「父さんの十字架に誓えるか?」と、詰め寄られた記憶が蘇る
毎回、陥落するのは幼馴染だ
化け物の血を引く自分にとって十字架など、なんの意味もない
なんの意味もなかったのに
自分の独り善がりの自虐など親父殿には見透かされていて
右腕だけに彫られていた、十字架の入れ墨
唐突、左腕にも彫られたのを見て嫌な予感を隠せない自分に
親父殿が、にやりと笑って言い捨てやがった
「若社長専用の十字架だ、嬉しいか?」
そうして自分はまんまと十字架に囚われた
例えるなら立ち小便をしようと試みた柱の隅に
鳥居の姿が描かれていようものなら出るものも引っ込むであろう
あの、感覚だ
親父殿の手根に彫られた十字架の入れ墨が胸に痞えるんだ
等と余所事に耽る社長の思考は筒抜けなのか
親父殿は目の前で指を鳴らして社長の注意を引いた
居住まいを正して親父殿を見遣るも改めて、その怖さが身に沁みる
「故人は亡くなった後に冥界の十王に十回、裁きを受けるんだ」
「裁きを受けた結果、故人の来世の道が決まる、という考え方なんだ」
「分かるな?」
心做しか親父殿の口調が
子ども相手の「それ」に変わった気がするが構わない
自分はいつまで経っても親父殿の前では子どもに変わりはない
「うん」
社長も率直な返事になり
矢張り二度目の、飲み物を勧められたが丁重に断わる
「初七日、四十九日、及び百か日」
「一周忌、三回忌には順次、十王の裁きを受けていくんだ」
「四十九日の法要を境に成仏すると共に来世の道が決まるんだよ」
「来世の道は六道と言ってな」
「地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天の六つだそうだ」
興味がなければ耳を擦り抜けていく会話だ
親父殿の話しに社長は相槌をしつつも無意識に込み上げてくる
欠伸を必死で噛み殺す
「つまり!」
社長の眠気を吹き飛ばすように親父殿が声を張り上げた
思わず身体をびくつかせ社長も応える
「つまり?」
「四十九日よりの後の法要は仕来りでもあるが」
「悪い道に決まってしまった故人の身を良くする事が目的とも言える」
「つまり?」
「生前の行いが良けりゃあ、なあ」
「最初の裁きで天へと進めるらしいがあ、なあ?」
抵抗虚しく年年、後退していく頭髪
額の広さが尋常じゃなくなった、その額に手の平を置き
気遣いながら言う親父殿に社長は無言で同意する
「先代は真っ当だった」
「真っ当だったが裏街の住人にしては、という話だろ?」
所詮、金貸し屋だ
精精、三回忌までの法要で追善供養の功徳を積め、と
「兎に角、十回ある裁きの一番最後が三回忌なんだよ」
「これを最後に先代の来世の道が決まっちゃうんだよ、若社長」
思えば祖父がそう紹介したせいか
出会った時から親父殿は自分の事を「若社長」と、呼んだ
幼馴染の店長よりも前の出会いだ
祖父が生きていようが死んでいようが自分は「若社長」のままだ
皮肉じゃない
自分自身その呼び名が一番、収まりがいい
「親父殿には本当に世話になってます」
「葬式もそうだけど後後の法要の手配とか俺には無理だったし」
垂れた前髪越しでも親父殿と目が合うのが苦手なのか
カウンターテーブルに目線を落とし
そう言う社長に大きく首を振る親父殿だったが分かっていた
先代と社長の間が上手くいっていない事は薄薄、分かっていた
カウンターテーブルから、ブランデーグラスを持つ
親父殿の手根に彫られた十字架の入れ墨を見つめながら思う
祖父は態態、自分との不仲を他人に口外しない
況してや自分自身、上手い具合に繕っていると自負していた
関わらず祖父にはバレていた
当然、親父殿にバレていても不思議じゃない
何方も狸親父だ
正直、親父殿が名乗りを上げなければ
自分は後先考えずに法要所か葬式すら執り行わなかったかも知れない
そんな事も全部、親父殿にはバレていたに決まっている
「三回忌もお願いできますか?」
そうして頭を深く下げる社長に親父殿が頷く
「勿論、勿論だよ」
「今回も先代の友人、知人を呼んで規模もでかくなるし、なあ?」
バーカウンター越しに二人の会話の邪魔にならないように
一歩、引いた場所で待機していたバーテンダーに親父殿が同意を求める
突然の要求にも慌てる事なく微笑む、バーテンダーが頷く
「だよな?だよな?」
と、気を良くした親父殿が自分の胸元に手を置いて答える
「自分に任せてもらえるなら責任持って取り仕切らせてもらうよ」
「有難いです」
カウンターチェアから立ち上がる
深く下げた社長の頭をこれでもか!、と撫で回した親父殿は
広場で二人の様子を窺っていた息子事、店長に挨拶して倶楽部を後にする
呼んでいるのか
呼ばれているのか
愈愈、先延ばし出来なくなったのは確かだ