八九三の女
[バーテンダー]
親父殿が撫で回して乱れまくった髪型のまま
気が抜けたように、カウンターチェアに腰を落とす社長を気遣い
三度目の正直、飲み物を勧めてきたのはバーテンダーだった
「一杯、いかがですか?」
そうしてロックグラスをカウンターテーブルに置く、バーテンダーに
社長は蟀谷を掻き揚げながら言う
「悪い」
「酒は止めたんだ」
道理で倶楽部で見かける事がなくなった筈だ
と、バーテンダーは気付くと同時に「それは残念です」と、眉を下げる
本当に悲しそうな顔で微笑むバーテンダーに
カウンターテーブルに肘を突く社長は口元で組む、指の隙間から呟く
「貴方が作る酒が一番、美味かった」
「程良く、酔えた」
途端、バーテンダーが真顔になって答える
「そりゃあ、私だってお持ち帰りされたくはありませんから」
咄嗟に顔を伏せ吹き出す社長
釣られてバーテンダーも控え目だが笑う声を上げた
そうして、ロックグラスに烏龍茶を注ぐ
丸で水割りのような「それ」をコルクコースターの上に乗せ、そそと差し出す
「先代が亡くなって二年、経つんですね」
親父殿と同世代の彼は今や、この倶楽部で一番の古参だ
物腰柔らかく落ち着いた口調で話す彼は
中性的な目鼻の見た目とは違い芯の強い、気骨のある人間だ
親父殿が息子に倶楽部を譲る気になったのも
少なからず彼の存在があったからだろう
倶楽部は幼馴染が継いで色色、変わった
親父殿も古参であるバーテンダーの彼も
幼馴染が打ち出す革新を、どんな思いで受け止めていたのか
今更、聞く訳にもいかないし飽くまで自分は部外者だ
唯、一番の鬼門だと思われていた、クリスマスパーティー
思いの外、彼自身が一番乗り気だったという
「楽しみです、私」
時折、見せる人懐っこそうな笑みで了承したそうだ
何処となく独り言のように言う
バーテンダーを余所に差し出された烏龍茶に口を付けるが、なんとも味気ない
飲めない酒であっても、なにかしら依存していた事を改めて実感した
少女の思いを別にすれば
最後に飲んだ酒が叔母の買い置き用の、缶焼酎とは悔いが残る
「先代も褒めてくれました」
「ん?」
「私の作る、お酒」
なにも言えず押し黙る社長にバーテンダーは微笑む
「こんな事言ったら若社長は不機嫌になってしまうかも知れない」
「そして私の事を嫌いになってしまうかも知れない」
「でもね、先代と若社長はとても似ている」
「だからね、店長も若社長の事が可愛くて仕方ない」
バーテンダーの言う「店長」とは親父殿の事だ
因みに息子である幼馴染の事を彼は「坊ちゃん」と、呼ぶ
油断すると笑ってしまうが、なんら間違ってはいない
俺も安定の「若社長」だしな
裏街の住人は本当に食えない
自分や幼馴染が未だ未だ、小童なのかも知れないが
真逆、バーテンダーの彼にもバレバレとは思わなかった
親父殿のお陰で嘘は不得手になった
ならば、喜怒哀楽という無防備な感情を隠し通せば
偽る事なく繕えると思っていたのに、なにも上手くいってなかった
だったら素直に
喜べば良かった
怒れば良かった
哀しめば良かった
楽しめば良かった
そんな単純な話じゃないけど
「やっぱり不機嫌になっちゃいました?」
「私の事、嫌いになっちゃいました?」
俯いたままの社長を窺うが
カウンターテーブルの、端の席に客が腰掛けるのを見止め
バーテンダーは柔やかに挨拶すると接客に向かう
これから素直に
喜べばいい
怒ればいい
哀しめばいい
楽しめばいい
そんな簡単な話じゃないけど
「不機嫌にもならないし、嫌いにもならない」
バーテンダーの背中に、ぼそりと投げる社長の声に
足を止め振り返る彼は微笑みを浮かべ、とんでもない事を口走る
「残念」
「嫌われた方が、ぞくぞくするんですけどねえ」
思わず顔を上げた瞬間
バーテンダーと目線が合うも社長は聞かなかった振りをした