八九三の女
[過去]
進む事もなく退く事もなく
変わらない夜を繰り返す二人の関係に不安はない
望めば一つになれると分かり合えたから
そういう未来だと分かったから
だが、過去は違う
あの夜、社長は確かに自分の名前を呼んだ
そして「会いたかった」と、言った
それは自分なのか
それは自分ではないのか
あの夜以上に引っ掛かる
少女の思いなど余所に
社長は少女の桜貝のような爪を弄びながら微睡んでいる
「どうして」
「ん?」
不意な、問い掛けに社長は瞼を閉じたまま返事をする
吐息が項を撫で、少女は少し擽ったかった
「どうして抱き締めるんですか?」
「ごめん、眠れない?」
「ううん」
「ううん、私は似てるんですか?」
「ん?」
「ユキ、という人に」
答え難い事を覚悟を決めて聞くのが女の特権だ
息を呑む社長を背中越しに感じた
だが、それは本の一瞬で社長はいけしゃあしゃあと答える
「似てない、な」
憎らしいが堪える
堪えるが肩を竦める少女は意図的に社長との距離を空ける
少女の行動に社長は思わず唇を尖らせる
普段の社長を知っている人間なら到底、信じられない表情だ
「どんな人か、聞いていいですか?」
そして少女も珍しく、興味津津だ
ダブルサイズのベッドの上だけが、お互い様なのかも知れない
「白くて柔らかくて、いい匂いがした」
少女の心がざわつく
これは焼き餅なのだろう
少なくとも社長と「ユキ」という人は自分以上に親密だったのだろう
でなきゃ、あんな事は言わない
「会いたかった」なんて、あんな事は言わない
到頭、社長が弄ぶ自分の指を引っ込めると
竦めた自分の肩を抱き寄せる少女に社長が少しだけ、笑う
「怒るのか」
賺す調子で言う社長に
少女は反応せず寝た振りを決め込もうとしたが
自らの肩を抱く少女の手に社長も手を重ね、思い切り抱き締める
「真っ白で赤いお目目の、うさぎの縫い包み」
「ユキ、って名付けた」
子どもの頃、いつも一緒にいた
一緒に寝て起きて、日がな一日お飯事をして過ごした
愛愛しいユキは、お茶会を開いては
ふかふかの、お手手で甘いお茶をご馳走してくれた
「大好きだった」
あの日
初めて会った、あの日
白い、震える手で茶を淹れてくれた
名前を聞いたら「ゆき」と、答えた
それで充分
それだけで充分
社長が少女に興味を持つのに、それ以上は必要なかった
「私も、会いたいです」
寝た振りを諦めた少女が簡単に言う
事情を知らない人間なら簡単に言うだろう
だけど、もういない
会いたくても、もう会えない
抱き締めたくても、もう抱き締められない
「俺も、会いたい」
少女の言葉に微かに答える、社長の声に振り返る
その顔を覗き込むと瞼を閉じたまま数分後、寝息が聞こえてきた