八九三の女
[初恋]
上目遣いで社長と社員を見遣ると叔母は漸く、身体を起こす
乱れた前髪を指で梳きながら思わず、顔を歪める
「社長は~」
「おぼえてないとおもうけど~」
「ん?」
意味有り気な、叔母の甘えた口調に社長は気にも留めなかったが
控える運転手兼社員(以下、社員)は身を乗り出す
「あたしたち~、キスした仲だかんね!」
言うなり、回れ右して部屋を出て行こうとする叔母
叔母の後ろ姿を見送り言葉を失う、社員
肝心の社長は顔にこそ出ないが
立ち上がり、追い掛ける足元は明らかに動揺していた
社長椅子を退けた瞬間
回転するキャスターに革靴が挟まり、すっぽ抜けつんのめる
「叔母さん」
感情の乏しい声で呼び止めるも叔母は止まらない
社長室の、いつもは開いている扉を豪快に開け広げ
「何事か?」と、顔を向ける社員達を横目に事務室を颯爽と横切る
社長は軽く、舌打ちして片足跳びで追い掛けるも身体が傾く
革靴を引っこ抜いた社員が手渡すように放る
なんとか受け取った革靴を履いて
漸く、叔母に追い付いたのはエレベーターホールだった
「叔母さん!」
思い掛けず必死な声だった
その声が聞けただけでも一矢報いた、気になった
エレベーターボタンの「下」を押す、叔母が社長を振り返る
「わかってる~」
「おぼえてないんだから、しかたないよね~」
半開きの唇、肩で息する社長の姿に
笑いを堪える叔母を余所に真っ直ぐ見つめる社長が言う
「確かに覚えていない」
その日の事は覚えていないが
以降、自分を見る叔母の視線には気付いていた
気付いて、あれはそういう事だったのかと今となっては合点がいく
その後、表街のホストと付き合ってると誰からとなく聞いた
だから、あれは気のせいだと思う事にした
馬鹿みたいに追い掛けたのならば
馬鹿みたいに言い訳をすればいいのに、なにも言えない
社長が瞬きと同時に目を伏せた途端、叔母が手を伸ばす
悲しいかな、叔母は禿びだ
目標の社長の頬には届かず、ワイシャツの襟元を鷲掴みする
そうして、ぐいっと引き寄せるも非力だ
喩え、その首根っこにぶら下がっても社長は動じない
が、流れで腰を曲げる社長に叔母は、飛び切りの笑顔を向ける
初恋は八割は実らない
自分の初恋は残りの二割には当て嵌まらない
抑、初恋なのだろうか
目付きの悪い野良犬に噛まれたと思って、忘れるのが一番だ
そうでしょう?
叔母を眺める、社長の垂れた前髪から覗く
冷たく透き通る、かと思えば、ひそと熱を帯びる眼差し
覗けば、逆に覗かれる
覗けば覗いただけ後戻り出来なくなる
だから覗いていいのは、自分じゃない
「あは、本気にした~?」
「ん?」
「嘘だよ~!」
余程、驚いたのか
瞠目したまま立ち尽くす社長の、ワイシャツから手を放すと
叔母は到着したエレベーターへと乗り込む
そうして扉が閉まるまで手を振っていた
叔母を見送る社長が漸く、上半身を起こした頃
追い付いた社員が一人、残された社長になにか言おうとするも
なにも言えないのは分かっていた
自分と社長とは年齢が近くとも
自分と社長とでは年季が違う
心許なく、エレベーターに目を向ける社員に社長が吐き捨てる
「気になるなら、はっきり叔母さんに言え」
「先延ばしにしたっていい事なんざ然う然う、ねえぞ」
途端、なんとも情けない顔になる社員を余所に
そう発破を掛けるのは容易いが自分自身も変わらないと思い当たり
社長は後頭部を抱えると、ゆっくりと掻き揚げた