八九三の女
[禄でなし]
二階の特別席に取り残された社長と叔母
沈黙に耐えられなかったのか
将又、組長の入退場で感情の測定器の針が振り切れたのか
叔母が噴き出すように喋り出す
「組に喧嘩売るって、しょうき~?」
「おまけに買うなんて、ありえな~い!」
「売ってないし買ってない」
心做しか、臍を曲げたように答える社長に
叔母は前のめりになり、髪を振り乱し否定する
「売ってたし買ってた~!」
「今頃、刺されてたっておかしくないんだから~!」
「そうか」
社長は反論するのを諦めて叔母の言葉を聞く
金貸しという稼業は
月影ない闇夜に背後から襲われても文句は言えない
所詮、表街の住人に「八九三」と、一括りにされる程
男を売る稼業と金貸し屋は大差ない
目線を向ける、目の前の穉い顔立ちのホステスは
テーブルに付いた時とは打って変わり、物怖じもせずに
尚もぶちぶち言い続ける
裏街では今回のような事は日常茶飯事だ
唯、男と女では此処での凌ぎ方が違うのは当然だ
男にしか知らない世界があるように女にしか知らない世界がある
客商売をする自分には其れに触れるのは貴重だ
母親もそうだった
稼業を忌む母親は事ある毎に祖父に噛み付いていたが
独裁な祖父は素直に耳を傾けていた
同様に叔母の話しに耳を傾ける自分が少し、滑稽に思えた
そうして伏せた瞼が重い
なんだか今夜は酒の回りが早い気がする
それでもロックグラスに残る、琥珀色の液体を
一気に飲み干そうと引き寄せる腕を唐突に掴まれる
不思議そうに顔を向ける社長に
叔母は身震いしながら頭を振って吐き捨てた
「じじいの唾がはいってそうだから、交換する~」
そうして叔母が呼ぶよりも
有様を見に二階にやって来た黒服にロックグラスの交換を頼む
一応、店長の様子を聞くも「ほっとけほっとけ」と、何処吹く風だったとか
話しを聞いて叔母は憤慨したが
社長は「あいつらしい」と、唇を歪ませるとぼーっとする頭を項垂れる
自分の腕を押さえるように掴む、小柄な指
綺麗にネイルアートを施した爪には、新人ホステスの趣味なのか
菓子で統一されている
なんと人差し指には、ドーナツがちょこんと乗っている
ピンク色のチョコソースが掛かった、なんとも美味しそうなドーナツだ
「あひゃあ?!」
黒服の背中を見送る叔母が突然、素っ頓狂な声を上げる
絡み付く、生温かい感触に振り返ると
なにを考えているのか、社長がその人差し指にしゃぶり付いていた
顔を引き攣らせ、腕を引っ込めようと
叔母は悪戦苦闘するが社長は軽く往なし解放しない
然う斯うする内に「ガリッ」と、いう音と共に社長が顔を上げる
そうしてローテーブルに吐き出した装飾品の、ドーナツの残骸を見て
叔母は小さな悲鳴を上げた
「うそだ~?!」
衝撃を隠せない叔母を余所に
社長の舌は手根に移動し、叔母の前腕を這い上がってくる
「ひゃあああ?!」
再び、声を上げた瞬間
掴まれた腕を引っ張られ、軽軽と抱き寄せられる
仰け反り、社長の胸に飛び込む叔母が叫ぶ
「まってまってまって~?!」と、身体を引き剥がす間もなく
叔母の両頬を掴み上げる社長は自分の唇を叔母の唇に押し付ける
必死に藻掻くが社長の舌は叔母の唇を抉じ開け侵入してきた
初めてのキスは「甘酸っぱい」というが、あれは味ではなく思い出だ
証拠に社長とのキスは唯唯、甘かった
社長の手が項に滑り込み、叔母のふるゆわヘアを掻き揚げる
露になった首筋に食らい付く熱い唇に叔母は声を漏らす
瞬間、ロックグラスをローテーブルに打ち付ける甲高い音が響く
夢現から倶楽部に引き戻された
叔母の目の前には先輩ホステスが貼り付けた笑顔で微笑んでいる
「代わるわ」
戯れる二人に一瞥をくれる先輩ホステスは
中堅ホステスがいた場所に腰掛けると徐に酒を作り始めた
叔母は力任せに社長を押し退けた
勢いでソファから転げ落ちそうになりながら立ち上がる
そこで漸く、彼女の存在に気が付いた社長に
先輩ホステスが艶笑する
社長も薄く笑って応える
成る程
此処からは二人だけの世界、って事ですか
叔母は無言でドレスを整え、その場を立ち去る
中央階段を駆け下りながらも、ふと立ち止まって目を向ける
既に先輩ホステスは社長の膝に座り、自らの我儘ボディを捧げていた
「禄でもない奴」と、吐き捨てる叔母は
先輩ホステスの肩越しに社長の目線と合う
覗けば、逆に覗き込まれるような深淵
それでも覗かずにはいられない衝動に駆られてしまう
知らず知らず自分の唇を指でなぞる
知らず知らず自分の高鳴る胸を抑える