八九三の女
[下戸]
連日連夜、飲み歩いていた社長が
少女との共同生活を切っ掛けにぴたりと止んだ
事情を知らない先輩社員達はあの手この手で食事に誘うが
先日の、古参社員の結婚祝い以外は乗らず
社長は飲み代を渡しては、早早に帰宅する毎日だ
今夜もそうだ
家で待つ筈の少女は、その叔母と食事してくる予定だ
電気の消えた、暗い部屋に帰るのはいつ振りになるのだろうか
意外と、口の堅い運転手兼社員(以下、社員)に感謝する
疚しい事はないが
疚しい事をしそうな自分がいるのも確かだ
邪な考えに軽く頭を振り、払う
そうして玄関扉の取っ手に手を掛けて驚いた
引き、開く扉の隙間から明かりが漏れ話し声まで聞こえてくる
玄関扉の閉まる音
革靴の踵を揃えて、脱ぐ音
社長が立てる物音に気付いたのか
居間の扉が開いて、叔母は飛び出して来る
「やっぱり~!」
「千の言ったとおり、時間どおりだね~!」
どうやら無意識に
いつもの時間に退社し、いつもの時間に帰宅したようだ
歩行者専用道路が多い裏街では
自車で十分の道程も徒歩で十分の道程だ
抑、寄り道する癖がない
「おかえりなさ~い」
「見て見て~、可愛い?」
ドでかいテディベアを抱えながら駆け寄る叔母の姿に
社長は言葉もなく、何度も頷く
「軍資金、ありがと~」
諸諸の振り込み
買い物を済ませた、残りの金が入った封筒を差し出し
飛び切りの笑顔でお礼を言う
受け取るつもりはなかったが
一向に引っ込める気配のない、叔母の小さな手を眺め
素直に受け取らざるを得ない
ルンルンの足取りで先を行く叔母に続いて居間に入ると
何故か、少女が台所で晩飯の支度をしている
何故か、配膳の支度をしている社員までいる
「あ!」
「社長、お疲れ様っす!」
そうして左手首に嵌めた腕時計を見遣る
社長の部屋には時計がないのは知っているが、理由は知らない
「じゃあ、俺は失礼しやっす!」
腕捲りをしていた袖を直しながら、帰り支度をする社員に
テディベアと遊んでいた叔母が唇を尖らせ言う
「え~、一緒に食べようよ~」
寝室のダブルサイズのベッドといいカウチソファといい
大き目が好みなのか、ダイニングテーブルも大き目な四人掛けだ
晩御飯の支度をする少女も当然
人数分+お代わり分で用意していたので同意するも
社員は癖のある前髪を掻き揚げ、答えた
「悪いな」
「家で彼女が待ってんだわ」
「彼女」という言葉に反応した叔母が半目で社員に噛み付く
「ウソってバレバレなんですけど~?!」
「馬ー鹿!嘘じゃねえわ!」
「ウソウソウソ~!ウソってバレバレだも~ん!」
「だ、か、ら!」
「つか、んな事よりお前も飯の支度ぐらい手伝えよ!」
言い合いをしながら玄関へと向かう、社員と叔母を横目に
台所に立つ少女に近付き、社長が小声で問い質す
「なに、してるの?」
徐にコンロ下収納を引き出し社長を牽制しながら
少女が小鍋を取り出し、答える
「ちらしずしを作ったんで」
「お味噌汁じゃなくてお吸い物にします」
「じゃなくて」
俺は食って来いって言わなかったっけ?
と、言わんばかりの視線を投げ掛ける社長に少女は目も合わせない
「外食は苦手です」
なんと言っていいか、分からない
「そう、なの?」
「そうです」
以上、話す気のない少女に社長も会話を終了する
どうせ社員を見送ってきた叔母が
立て板に水の如く、喋り出すだろうから問題ない
久し振りに味わう姪の手料理に上機嫌で舌鼓を打つ叔母は
一緒に購入した日本酒を社長に勧めるが断られる
「なんで~?」
「なんで、あたしのお酒が飲めないの~?」
瞳を潤ませて、絡んでくる叔母に社長は素直に告白する
抑、ホステス相手に飲み比べ対決など無謀だ
「酒はそんなに飲めない」
「そうなの~?」
「そうなの」
唇を尖らせぶーたれる叔母を余所に
勧められた酒の代わりに吸い物を啜る社長の顔を
向かいの席から盗み見る少女が、あの夜の出来事を思い出す
意識する絆創膏の下が、疼く
「大して飲んでない」と、言っていた社員の言葉が
嘘じゃなかった事に漸く、納得する
そうして少し笑う少女の顔を社長は見逃さなかった
目と目が合った瞬間
少女は隠すように椀を口元に運んだが誤魔化せなかった