川と海の境には
つまりは「どこでもないどこか」を眺めていた。それが眺望に永遠を与えている。景色は中心を必要としていない。
夕日は逆光で、急冷された熱鉄球のような色をしている。そこから黒く、小さいものが二匹、飛び出してまた、戻った。蝙蝠だ。二匹の蝙蝠が夕日を根城にしている。鮮やかな光に黒い点が飛び回る。あれがどうして、私は好きだった。
蝙蝠が飛ぶには季節はまだ寒い。あれらは少しはやく起きてしまったのだ。川岸で見た蝶と同じように、あれらはなぜか生き急いでいる。
蝙蝠の一匹が夕日から真下に飛んでいく。夕景をゆっくり降りて川までたどり着いて姿を消した。代わりに、私の視界に、何かが新しく映り込んでいる。
少し向こう、蜜柑の匂いが強く立ち昇っているところに、何かがプカプカ浮かんでいる
夕景の色が浮かぶそれに入り込んでぐるりと回る。川面の少し下からは蜜柑の匂いが溜まっていく。川面にちょこんと顔を出しているのはビニイル袋だった。
視点が定まれば、流れが元に戻った。木船と川の流れは一方通行に戻った。
冬空に立ち昇っていた蜜柑の匂いは、不思議とすっかり消えてしまった。永遠がどこかに離散してしまった。
夕焼けがまた、強く降りてきて、川面は焦げていく。蜜柑は完全に焼き尽くされていた。その焦げた匂いに隠れて、何か、何かが川に潜んでいる。ビニイル袋はそれらの内、最も大きく見やすいものだった。
川底にはペットボトルのキャップが半分埋まっている。側面のギザギザは侵食されて丸くなっている。今も、ギザギザの小さな一部がとけて丸くなっていく。夕焼けの紫外線が水を透過してプラスチックを分解する。その様が水面に描かれている。その近くには瓶の破片が刺さっている。水草が瓶のせいで曲がって生きている。川面には洗剤の泡か、そういうものが丸く浮かぶ。夕焼けの色がそこに入ってぐるりと世界を小さく回している。勢いよくビニイル袋が流れていった。川の少し深い所だった。魚が頭からビニイル袋を被っているらしい。その他、数えきれないほどの「小さきもの」が川に隠されていた。
「気づいた?」
夕焼けの静けさの中で、響く声だった。
少年だった。振り返れば姿に夕焼けが映って滲んで見える。
「瀬川のね、少し上の方からゴミが流れてくるんだ。たぶん、不法投棄だと思う。たまに大きなトラックを見かけるから」
そういって少年は私の目を見る。夕焼けは目まで焦がして生かしている。
「今日は蜜柑の匂いだね。少し前は健康に悪そうな薬品の匂いがしたこともあった。折れた注射針が流れてたこともあった」
私には少年の姿が認められない。そこにいるのはそんな、そんな幼い人間ではない。簡単に言葉を借りるなら、山の主だ。夕景を背景に、少年は静かに怒っていた。
少年はもうオールをしまっている。木船の先端が洗剤の泡を突いてぽっと割れた。小さき世界が割れていく。閉じ込められていた夕焼けが川面で小さく花開く。
木船はゆっくりと川岸へ向かって行った。もうすぐ終着点らしい。私は少年から目をそらすことが出来ずに、後ろ向きのまま流されていた。そして木船を、例の渦のところに止めた。少年も疲れているらしい。少年は足早に岸へと急いだ。向こうに家があるらしい。
川は流れる。先には広くなった世界が見える。――海だ。
木船を降りた途端、体の力が抜けてしまって、近くの岩に座ってしまった。川音が岩越に響いてくる。中心は冷え固まっている。深く息を吐いて、体のすべてを岩に預ける。視界は素直になって眼下の川に映る。うっすら潮の匂いがする。肺に潮が入れば肩がもう一段下がって、脱力した。右から左へ、川を流して消えていく。視界の端に海がいて、そこに向かってあらゆるものが流されていく。海はすべて受け止めて広く、薄くさせて見えなくさせた。
左から右へ、潮の匂いが風を押しのけてやってきて、木々を枯らしていく。ここらは萎れた樹木でいっぱいだった。流されてきた「ゴミ」も潮にやられて萎れるのだろうか。
疲れ果てた目には魚の動きが映る。プラスチック袋が上を流れて、下で魚が逆行して泳いでいる。終わり始めた夕焼けは、もう夕暮れと呼ぶにふさわしい。木々は燃え尽きたが灰になることもできずに黒くなった。蝙蝠は広くなった暗い空に擬態して自由に滑空している。彼らの姿を認識できないことが、疲れ果てた体の中で寂しかった。ほら、あそこ。一匹飛びやしなかったか。
そういう感傷の中で、魚には活気があった。都会の夜を包む異様な高揚感。それに似たものが夕暮れの中で魚に乗り移ってしまっている。魚は夜の始まりに何か、何か目的を見つけて川を上っているようだった。魚の二つの目は川上のどこか一点、そこだけに向かっている。私は疲れ切った体で魚の行く先を想像している。あの川の、一体どこを目指しているのか。蝶がいた川岸近くだろうか。あそこは春の空気が入り込んでいて快適だろう。もしくは白渦まで戻ってもう一度抽選に巻き込まれようとしているのか。――もしや、あの時の魚なのか? 私は無数の可能性を想像して疲れながら楽しんでいた。
夕暮れは最後の一光を残して夜に消えた。切り替えの瞬間に辺りが弱く輝いたのは、一体なんだろう。
しばらくすれば冬空が夜を更新して、完全に切り替わる。今、そこに広がっているのは非常に曖昧な夜空だった。蝙蝠はまだそこにいるらしい。夕暮れの最期は本当に儚いものだった。広い冬空の中で微力であった。そんな微力が数舜経った今でも冬空に影を残している。
曖昧な冬空の下、魚はゆっくり前に進んでいく。川の流れが急なのだろう。もしくは魚にはあまり力が残っていないのかもしれない。
夜空に突然月が顔を出した。いや、月はずっとそこにいたらしいが、夕暮れの魔法が今、解けてしまったらしい。海の方がなんだか騒がしくなって、川音は底に沈んで――聞こえなくなった。ざわつきは大きくなった。虫の声はまだやってこない。
辺り一帯に海の音だけが広がってそれがやけに力強いものであったので、景色はそれを受け入れていた。疲れ果てた私には何の関係もない。
川の存在が薄くなっても魚は止まらない。暗くなった川面を越えて、魚の姿は必死さを滲ませ始めていた。
月がほとんど丸くなって、海の遠くから波を連れてきた。陸地までやってきた水が川に向かって集まっていく。自然な流れだった。
その時、魚の必死さの正体が分かった気になった。
川と海の境には、混沌の子が群がっている。上に川を、下に海水が沈んで、汽水域となる。あの魚は上の淡水でしか生きられない。いや、かろうじて死なずに済む。ただ、嵐や大雨、勢いの良い波によって攪拌されれば、生が一転、死へと変わる。そんな危険な領域がすぐそこにある。
つまりは、そういうことらしい。魚はどこか、どこかの目的地を目指しているのではなく、後ろや下に潜む危険を察知して逃げているのだ。魚はそのためだけに命を燃やしている。
夜は音を響かす。少年が私に早くこいと急いている。――何も返せなかった。今、何か声を漏らしたら、もうどこへも行けなくなりそうな、そういうものだった。私が、この先逃げていくために、考え続けなければならない問いに、この瞬間に出会ってしまった。