川と海の境には
川の流れが渦になって停滞している。今度は明らかな白渦だった。その白渦から左右に分かれて流れが分離している。渦に巻き込まれた川の粒子たちは抽選でどちらかに振り分けられている。魚たちはこの抽選に巻き込まれることを避けていたらしい。
木船は流れに逆らわない。少年はオールを水から揚げて、さっきと同じ目を渦のはるか向こうへ流していた。
「どっちに行くんだ」
「知らない方が上手くいく。そういうこともよくあるでしょ?」
たった一匹だったが、魚が抽選に巻き込まれてしまっていた。流れに逆らって何とか家に帰ろうとしている。目ん玉には普段は見せない必死さがあった。尾びれに強い流れが当たって、横向きに流されてしまった。もう泳ぐこともやめてしまって、腹が虚しく銀色に光っている。ほんの少し、紫の光が混じっていた気がするが、そんなことよりも魚の行く末を案じたい。白渦が魚の銀を吸い込んでそのまま色を融かして、――。
木船は左に振り分けられた。白渦は川面で数回うねって元の流れに戻った。渦の白も、魚の銀もそこには見えない。
私と少年は静かに流されていた。オールを使う必要がないほど、白渦の残りが川の流れを支配していた。川岸を形成していた石たちを一つ、また一つと削ってゆく。川の広がりを予感させた流れは、同時に海への終着点の近さも予感させた。
オールが渇きだして、木目の隙間が冬の風で冷やされていく。少年は絶妙なタイミングでオールを水につけた。また、川の温度に戻っていく。
「もうそろそろなのか」
「もう少し」
何故か少年の声が小さかった。いや、か細かった。何か、この先の出来事を悲しんでいるような、そんな声だった。
少年の様子を伺うたびに少しずつ不安になってくる。私はこれから何かを目撃しなければならないらしい。少年はそう言っている気がする。
分岐した後の川の色は薄い青だ。深くなっていた白渦から離れるたびに色が抜けていく。後ろを見ればグラデーションがある。春雷雲の、中心から際に向かって薄れていく様と似たものがそこにはあった。
しかしそれは川面の話で、川底は変わらず藍色だった。深く残る藍色には一体何が融け込んでいるのだろうか。あの川底の石を掬い上げたら、どんな色をしているだろう。
私は少年からの不安と、流れる川からの安心を同時に感じている。都会から逃げ、無人駅から逃げ、ここまでやってきたことに満足し始めていた。オールが水を切るたびに、その満足は足されていく。川面の色が蒸発して私の心とでも言おうか、そこに溜まっていく。夕焼けの浸食と共に、自分の影が色濃くなっていくときの何とも言えない不安のような感情、それの反対が今、起こっている。
白渦の残りは完全に消えて、川幅は広がって穏やかだった。底には水草が生えだして、水中に多くの酸素が供給されている。沈んだ石の、その下に酸素の泡が張り付いて、それが魚の餌になっていた。ここらからまた、魚が生き始めていた。
三匹並んで、弱い流れに逆らうこともなく静止している。いや、僅かにヒレが動いてその場に留まっている。彼らはどこか目的地を見出していて、それが希望だった。水草の揺れは木船が進む方向と一致している。川は普通に流れている。
川を下って、随分標高が落ちたのだろう。空は少し遠くなって、寒さは軽減した。すうっと見上げる冬空は雲を退かして晴天だった。春の、少し乱れた上空の様子は、まだどこかで待機している。(その乱れさえも穏やかに受け入れられるのも春の様子だ)
空の左端から夕暮れの色が差し込み始めていて、うっすら冬空を染め始めていた。主役はまだ交代しない。乾いた空気の中でそれは綺麗に映えて冬空に新しい一面を持たせ始めている。
流れは少年のオールから創られている。そう思えるほど落ち着いた川になった。冬空や川岸、遠くの風景、揃って静寂という言葉が一番似合う。このまま木船を降りることもなく、ゆっくり流されていくのも悪くはない。いや、むしろそうしたいものだなあ! そんなことを静かに思っていた。
木船の底の温度を感じる。周りの空気の中で底が一番冷えていた。それに気づかず流されてきたのは、なぜだろう。
木船が進むたびに夕日が右へ右へと侵食していく。動的なものが皆、揃って同じ時間を共有している。冬空をじっと見ているとあるときにくいっと色の境界線が動く時がある。じわじわと広がる夕日が、時折時計の針のような動きをするのだ。
少し先、背の高い一本木が見える。そこを境に左岸から別の川が流れ込んできていた。この川は、もうすぐ終わりになって、名前が変わる。その瞬間がしばらくして今となる。
「あの川はなんという川なんだ」
「瀬川」
少年は川の名前だけ呟いてまた静かになった。瀬川、良い名ではないか。なぜ少年は寂しそうに呟いたのだろう。
木船の先端が瀬川との合流点を過ぎて荒々しくなった。川面との接点から後ろに流れを引く。瀬川の源流の方を見ると緩やかに下って穏やかだった。二つの穏やかが混ざって、荒くなってしまったようだった。
川面では二つの川の色がマーブル模様のようになっている。流れてきた川は薄い青で、瀬川は緑が強い。おとなしく混じり合った箇所は綺麗な色になって、波を整えている。調和できないでいる箇所は反発し合って、木船を大きく揺らしている。木船の底が少し暖かくなったのはそのせいだろう。
瀬川は独特な匂いを持っている。森の中で草を踏んだ時に広がる、繊維がほどけるような香り。その香りに柑橘系の何かを混ぜたような、そんな匂いだった。川上に、蜜柑の樹か何かが自生していて、そこから転げ落ちた蜜柑が川を流れて匂いを染み出している。そんな想像を楽しんでいた。
二つの川が混じり、調和し、またほどけてゆく。川面の揺れに隠れながら、永遠とそれを繰り返している。蜜柑の匂いは冬空に向かって溶け出して、薄く広がって夕景の裏を支えている。冬空の、まだ青い部分にすうっと入り込んで匂いが色に切り替わる。その度に瀬川の雰囲気が川面から姿を消してゆく。それでも瀬川の雰囲気は完全に消えることはなく、どこまでも薄く伸びて残ろうとしている。水平線に陽が落ちていくときの、あの感覚に近い。
私はそこで流されながら、時間を過ごしていないような、茫漠とした空間で息をしているような、そんな変な気になっていた。弦楽器の残響が空間をどこまでも響いて消えないと錯覚してしまう。それが蜜柑の匂いにも映っていた。そして川に流されながら、川もまた、自身を遠くに流させて、終着点をずらしているような。木船は同じところを永遠に漂っているような、不思議な永遠だった。
冬空は七割を夕景に渡していた。夕日の色は際に向かって薄れて、伸びていく。川面の調和の様子は、夕焼けの強さに負けて、平らになった。波が夕焼けの色に濃淡を見せ、その下でマーブル模様は繰り返されている。蜜柑の匂いはますます冬空へ引き込まれていく。
「私ではない、誰かが見ている」これはそんな視点だ。私の、内側で静かにしてた誰か。その誰かが冬空と蜜柑の匂いを見ている。そしてその誰かの横顔を、漠然と眺めている。それがどうして、こんなにも美しいのだ。