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川と海の境には

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 岩肌にしがみつく必要はなくなった。川は普段通りに振舞っている。岩肌から手を離せば、川の音が素直に私に入り込んでくる。
足元に川がいる。粒子たちの姿は流れに掻き消されて確認できない。色は薄い青を混ぜていた。そこに時々違う色が混ざっていて、それは魚だった。

三匹並んで泳いでいた。水草の周りには小エビが群がって質素に住み着いていた。

 川には人の生活が入り込んでいなかった。ガラス瓶や紙切れ、洗剤の泡や薬品の匂い、どれも見当たらない。純粋に、山の上の方から流れているらしかった。
 しかし、一つだけ異質なものが川に浮かんでいた。木船だ。小さな、二人乗るのがやっとなくらいの、小木船だ。ここから少し川上の方に、それはあった。私はそれに向かって歩き出していた。
 木船にはオールが一つ入っていて、他には何もなかった。浸水もしていなかった。木船の下では川の粒子がまだ、小休止していた。
木船はどこにもつながれていない。けれども、流されずに留まっている。


「触らないで」後ろから声がした。弦楽器の張りつめた音に似た声だった。私は驚いてしまって、木船に触ってしまった。木船の静止が解かれて、流れに負けていく。
声の主は川に入って、木船を掴んだ。少年だった。
「すまない。つい驚いてしまって」
 少年は白いシャツと短パン姿だった。川の深さは少年の膝の高さまでだった。冷えた水が肌の奥まで染み込んでいくのを思う。シャツには穴があいていた。寒くはないのだろうか。
「どうやって、あれを」
「この川には流れが止まるとこがいくつかあるんだ。そこに木船を泊めていた」
「そんなことがあるのか」
 私は少年の言うことを、おおよそ信じていたが、なんとなくそう言ってしまった。
 しばらく、川音が響いて、自然な時間を過ごす。何も話すこと転がっていない。
「見に行くかい」
 少年は木船に私を乗せようとしている。私は失った目的地の代替をもらった気がしていた。


 少年はこの山の持ち主らしい。たまに管理のために山に入るらしい。そして帰りはこうして川を下るらしい。歳は十三らしい。
「この川は随分綺麗だが、周りに人は住んでいないのか」
「誰もいない。俺もここには住んでない」
「君も?自分の山なのに?」
「俺のじゃない。山は山だ」
 少年は私の後ろでオールを漕いでいる。川の真ん中をまっすぐ進んでいる。魚は木船を避けて川の端の方で泳いでいる。景色の多くが動いていた。
 この川は「」というらしい。少年は川の名前を言った後、黙ってしまった。後ろで沈黙のまま、私は話しかけることを億劫に思えていた。木船の底が二人の沈黙を支えていた。――妙な感覚だった。
 川幅は少し広くなった。両岸は左右で異なった景色を乗せていた。右は石と乱雑に残された流木、左は背丈のある草が覆っていた。下の方にシダらしき植物が隠れているのを、私は見逃していなかった。
 風は川の流れに沿っていく。思えばここにはあの電車についてやってきた風も混じっている。あれらはこの穏やかな川の空気のどの部分になっているのだろうか。
 景色は異なれど、両岸は同じ空気に包まれている。その空気の一部が川面に触れて、さらに冷たくなって元に戻っていく。冷えて、さらに冷えた空気が川面を揺らしている。そしてその濃度が濃い所に、(即ち、冷えきったところに)小さな渦を見せていた。
「あそこの渦、あそこが川の流れが止まるところなのか」
「あれが見えるの。あんた、だいぶ疲れてるね」
「しばらく、仕事はしてないが」
 少年はそういうことじゃないよという目をしてまた、黙ってしまった。今度は木船の音が沈黙をよくないものにしていた。


 渦は白く濁らず、そこだけがくるくると回っている。気づかずに巻き込まれた小エビが渦の中心へ到達して、そのまま水中に姿を消した。――渦の中心に見えない試験管があって、そこに吸い込まれたら、見えない試験管に隠されて一生出ることが出来ない。あの小エビはあのまま目の色を濁らせるのだろう。
 一緒に巻き込まれた水草も末路は同じだった。渦は静かに川の景色を侵食していく。

 
 色彩に乏しい右岸から蝶が姿を現した。揺れる羽が蝶の姿を曖昧にさせていって、右岸の景色の中で異質だった。進んできた森には蝶なんかいやしなかった。すべての生き物、が透明になって、私には見えていないかのように、不自然に生き物がいなかった。
 それでも、いくつかの花達は次の世代と前の世代を見せていた。中には他花受粉を必須とする花もいた。(植物辞典にそう書いてあったと記憶している)明らかに虫媒の跡が残っている。それでも虫一匹、私には見えなかった。川と、その周りにだけ生き物が見えている。
 蝶は同じところをゆらゆら飛んでいる。周期が見えそうで、見えない。岸を越えて、川に入ってくることはなかった。冬の残りを掻き消しているようだった。羽根の色は鱗粉で純白だった。春先の、アブラナ科の近くでよく見るような、あの蝶だった。
 右岸の、黒くなった流木の隙間に蝶は入っていった。右から入って、中は空洞だった。左から出る時に、そこにある冬の空気を染み込ませて春らしい空気を少し残していく。微細な変化だが、確実に春を進めていた。季節はああやって進むのか。
 景色は順調に春に近付いているらしい。あいつは少しばかり早過ぎた奴だろうが、あれを見た蛹がもうそろそろ動き出す。蛹の中にいたころと、羽化した後の命、どちらがどうでどうなんだと聞いてみたい。

 
 かと思えば。左の草の根元に白く雪が残っている。シダは雪に埋もれて死に絶えていた。


冬の風が川上から流れて、蝶と残雪の両方を抜けた。蝶は風に負けて、流木に避難していく。風は留まることなく、私を追い越して川下へ急いだ。残雪は気づかれることなく、そのままシダを殺していた。
ふと、この先が気になった。このまま流れていけばあの駅までたどり着くこともできるらしい。(あの駅に、川の音はしなかった)しかし、私はそれを拒んだ。
「それならおれの家に来なよ。途中で川が裂けるんだ」少年は少し、嬉しそうだった。


 深くなっていく川は、流れを複雑にしていく。進むたびに深い青色が足されていく。振り返れば川面がうっすら絵画のように流れる階調を浮かべていた。純度の高い川だが、複雑な流れのせいで白く波が生まれてただの川に見え始めていた。
 波に紛れて魚が見えなくなった。小エビや水草もいない。川の流れが少し早くなって、誰も定住できないのだ。
 代わりに川底に丸い石が増えてきて、白い波の隙間から見えている。角のある石はどこにも見当たらず、かろうじて丸くない石も、揺れる川面の映像にやられて歪んで見えた。砂金のようなきらめきが川底で眠っている。川面からでは気づけないものだった。
「なんだか、誰もいなくなってしまったなあ」
「ここから先は、違う川なんだ。魚たちは案外、そういうのが分かる」少年の目は川面から離れて、すうっと向こうに流れていた。
 私はその時、「違う川」というのは役所の管轄だとか、所有権だとか、そういうことだろうと思っていた。仕切りはない。どこまでが「」で、どこからが違う川か。曖昧な境界が川の流れに歪んでさらに曖昧になっている。
作品名:川と海の境には 作家名:晴(ハル)