川と海の境には
試しに左に生えている細い木に触れてみた。落ち葉のようにはならなかった。ただそれだけのことがなんだかうれしかった。
川に向かって進んでいる。自然の妙な様子の底で、隠れて川音が続いている。ゆらりゆらりと紙飛行機のような、危うい川音だけれども、決して着地はしない。風が行く先を示してくれた。
思えば風が聞こえない。さっきまで自然を自然らしく見せていたというのに。
自然たちは自分たちの特徴を自ずから見せていた。影が勝手に動き出しているような、そういう不気味さがあった。
あれは少し古い悪夢だが、外国のごみ山の傍で立っているというものがある。果実の腐った皮や、ペットボトルのキャップ、汚れたダウンコート、折れた注射針、緑色の液体などが放置されていて、油模様がそれに浮かんでいる。分別はされていない。
その時の異様な空気、私はそれが本当に嫌で仕方がなかった。その夢には風がいなかった。私がどんなにごみ山から離れようと走っても、体は風を切らない。あの時の感覚を、まだ現実で体験したことがなかった。――それが今、この景色と合致していた。
それでも、私は夢の時と比べて随分気楽だった。「私には行き先がある」ということが頭の中で反響して、気楽だったのだ。
歩くたびに、風がいないことを痛感する。それでも歩くことしかやることがなかった。頭上の木々は冬の空を隠している。地面はそのせいで湿っている。景色はシダを主役へと変えていった。より一層ジメジメとした空気が自然を覆った。しばらく、似たシダが同じように景色を創っている。
静かに! そう言われた気がした。
声は左から。ふり向いた時には、風が私を抜けて川に向かっていった。各々勝手に騒いでいた自然たちは風の力に押し負けて、自然らしく囁やくしかなくなったようだった。私にはそれが安心だった。しかしそれをどう組み替えても「静かに」とはならない。
少し高くなった斜面の向こうから、声は聞こえてきたようだった。斜面にはシダ植物だろうか、そういう陰鬱な葉が広がっていた。シダ特有の湿気は冬の空気で冷えて、土壌に降りていた。陰気だった。土壌全体が泥濘になって、重い斜面だった。
伸びている木々も根をしっかり張れていないように力なく萎れていく。
私が踏んでいる草、右手に見える森、吹き抜ける風は冬の姿をしていない。僅かに入り込んできている春の空気を先取りして生き急いでいる森と、それに順応できない斜面だった。
既に道はない。近代道路からしばらく続いた道らしきものも、いつの間にか終わっていた。私は道ではない場所を選んできた。
これが都会なら、どうだろうか。例えば民家の庭。庭先のひまわりに惹かれて、中に入ってしまって良いだろうか。畔が整備された田畑に踏み込んで良いだろうか。それはダメだ。ダメに決まっている。
目の前の斜面を登るのは、どうだろう。道はない。足場もないし、あそこは泥濘のように滑りそうだ。服に土が付いたらなかなかおちない。少し急な斜面だから、下手したら怪我をする……けれど。私は少しだけ気分よく斜面を登ることに決めた。
斜面を登るとき、私はできるだけ音を立てないよう気を付けた。美術館の油絵の前を歩く時の感覚を思い出す。「静かに」と言われたからにはできるだけ従っておこうという保身からだった。
斜面は一つの大岩で終わりになった。角が鋭く尖っているので、こいつは川を流れてきたものではないらしい。背丈は私よりもあり、幅はそれよりも長い。向こう側の景色を隠している。見えない向こうから確かに川の音が聞こえていて、音だけが岩を透過していた。川の澄んだ空気はまだ斜面には入ってこない。
大岩に静かに触れてみる。片面を川の空気に、もう片面をシダの空気に晒されて引きちぎれそうなほど冷え切っていた。触れた瞬間の、冬の実感は見事だった。
岩肌を通して川を感じる。ゆったりとしたリズムであるから、清流のような、そういう川が向こうにある。岩の粒子が囁くように振動している。表面から中心に向かって、まだ固まり切っていない核があるように思える。そこが、川の音を包んで響かせている。目を瞑ればその振動がより強くなる。静かな自然の中で、今度はそこだけが動いていた。
後ろのシダが囁くのを止めた。風がまたいなくなってしまっていた。
岩肌も少し遅れて音を失う。核の部分がゆっくり冷えて固まってしまった。その向こうから聞こえていた川の音も、どういうわけか途絶えてしまった。
目を開けようと閉じようと、音は、消えていた。消えてしまったのだ。向こうで何が起きたのか。私はそれを知りたかった。同時に、見てはならないようにも思えていた。それでも、私は大岩の右の方から川の景色を覗いたのだった。
川面と川底で、落葉と水草がそれぞれ動かない。川面は太陽を反射させて川沿いを映すが、それも動いていない。水の粒子たちが小休止しているような、そんな緩い空気が川沿いを包んでいた。目的地だった川が興味の対象に変わった。
フランスかどこかの画家の風景画に、「水の静止」というものがある。背の高い草原近くの、流れる川を描いたはずが、完成品には流れが見えなかったらしい。画家の力量不足だという解説もあるが、東京の美術館の中では異彩を放っていた。この川にもその絵と同じものを感じた。――あの画家はこの風景を見たことがあるのではないか。
川が川らしく振舞っていない。おそらく右の方、あちらが川上で、左に向かって下っている。川沿いは砂利で広くなっていて、大岩は少し盛り上がった土手にいた。ここから水際までは少し距離がある。白い貝殻が一部砕けて足元に落ちていた。死骸は残っていない。
何より、さっきまで聞こえていた川の音が、目の前の水たまりが川である理由だろう。それなのに、川が流れていない。
水の粒子たちは仕事を終えた後のように緩んでいる。川面に浮かぶ葉は流されずに、水分を吸い込み始めている。葉脈から水の色が透けて、水の色が沈着し始めている気がする。遠くにある葉がこんなにも近くに感じられるのは、どうしてだろう。
私は見てはいけないものを見ている気がしていた。自然というものの、人間が関与してはいけない側面を見てしまっている。岩肌に触れている左手が手放せない。
冬風の残りが斜面を超えて岩肌を冷やした。私は思わず、あっと声を漏らしてしまった。
川の粒子の一匹が、私の声に気づいた。蛙の子のようだった。途端に川下に向かって流れ出そうとするが、周りの粒子が邪魔で動けない。彼の動きによって、周りの粒子はやっと私に気づいて、急いで川下に向かっていった。乱れた流れは次第に落ち着いていき、特徴を失ってただの川になった。
川から離れて、私の視点からは斜面を抜けてきた風が川を押し流したように見えていた。
川の上空から、下降気流がやってきたときの、川面の強引な波紋の様子、それが見えていた。不死鳥が川面に着水したような、そういう波紋が川に流れを戻した。
川沿いは何ごともなかったかのように、自然だった。川上では澄んだ水が絶えず精製されている。それが当たり前のように川下に向かっている。それだけのことが、不思議で仕方ない。