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桐生甘太郎
桐生甘太郎
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馨の結婚(第二部)(19~27)(完)

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ここからの話は、馨が十月に日本を離れた後から帰ってくるまでの間に、美鈴の身に起きたことを話すとする。



美鈴は変わらず学習と研究に明け暮れ、教授からも少しずつ信頼されるようになり、彼女が十二歳の頃に読んだ哲学書の著書、皆川教授も、美鈴を秘蔵っ子として可愛がるようになっていった。美鈴はそんな充実した日々を送りながら、馨に恋し続けていた。

馨が日本を出て自分の家から解放されると、彼は毎晩美鈴に電話を掛けてくるようになったので、美鈴は一日の終わりにその電話を受けた。そうして二人はお互いに寄り添いながら、励まし合い、愛を交わした。それから電話を切ると、美鈴は恋をする喜びに体を温められたように、ゆっくりと眠る。今は会えないさみしさはあったが、八カ月後には、七カ月後にはとそれが縮まってゆくのが彼女には大きな楽しみだった。暗い部屋のベッドの中で彼女はよく、「自分はこれで大丈夫なんだ」という言葉が頭に浮かんだ。そして、眠る前に指にはめた銀の指環をなぞるのだった。


そんなふうに幸福を感じ、それゆえに意欲に満ち溢れた彼女は、どんなにか魅力的に輝いていたことだろう。だからといおうか、美鈴は周りに居る男性たちから、憧れの的になっていった。

もちろん美鈴はそんな視線を気に掛ける暇もなければ、馨以外の男性に用があるわけもないが、彼らは憧れの女性を前にしているのだから心を止められるはずもなく、美鈴は二度ほど二人の男性に言い寄られた。一人は美鈴と同じく博士課程の生徒、それからもう一人は大学院で三年次を終えようとしていた先輩であった。





美鈴の大学院での講義中の態度は大体こんなようなものだった。教授が本や論文から目当てのページを引くのをもじもじと待ち、教授の話に頷く。そして、疑問を感じたら必ず席から立ち上がって質問をした。教授は皆それに答え、彼女は礼を言って着席する。そして美鈴は、意見を求められれば臆することなく整頓された言葉ではっきりと延べ、教授はそれを褒めたり、難色を示したりした。教授が彼女の意見に対してどのような考えであっても、彼女はその内容を聞きたがった。



ある日の美鈴の講義は一年次では単位を一番落としやすいと言われている、難解なものから始まった。それは二時限目の講義だった。講義室で席に就いた時、美鈴の隣には他の男子生徒が一人座っていて、頻りに美鈴をちらちらと見ていた。だが、黒板をよく見て、教授に質問することを考えていた美鈴には、それは見えもしなかった。

二時限目の講義が終わると、片付けをして美鈴は席を立とうとしたが、不意に隣に居た男子生徒が声を掛けた。

「あ、あの、すみません…」

「はい、なんでしょう?」

美鈴が振り向いてその男子生徒に明るい両目を向けると、まるで男子生徒はそれを眩しがるように、ちょっと目を逸らしてもじもじとする。

「あの…園山さんですよね…」

「はい、そうですが」

美鈴は、「自分の名前を、教授でもないのに知っている人が居たなんて」と、ちょっとびっくりして、男子生徒を見つめていた。すると男子生徒は、口憚られることをやっと言う勇気が出たような様子で、顔を上げた。

「僕、あなたに…憧れてるんです。それで、もしよければなんですけど…このあと、学食でごはん食べますよね…?だから、同席してもいいですか…?」

それは決して器用とは言えない、女性への誘い文句だった。決定的なことは恥ずかしくて言えないにしても、ストレート過ぎて、普通の女性なら怖くなって断るだろう。でも美鈴は怖がりはしなかった。しかし、彼の言葉を歓迎したりもしなかった。美鈴はただ一言言った。

「ごめんなさい、そういうお誘いはお断りします」

美鈴の言葉は冷たく突っぱねるようなものではなかったが、断ることに申し訳なさを感じている語調でもなかった。そのあとで美鈴はくるりと後ろを振り向いて鞄を手早く手に取ると、出口に向かって歩いていった。


しかし、その男子生徒はそれだけで諦めはしなかった。彼は美鈴と同じくフランスの哲学と文学を専攻していたようで行き合う講義が多く、美鈴は何度か話しかけられたが、いつも丁寧な言葉で断った。

でも、彼は執念深かった。ある日のこと、またある日、彼は講義を終える美鈴を待っていたのか、美鈴が最後の講義が行われていた講義室から出ると、目の前にその男子生徒が居た。さすがに美鈴も驚いたが、彼女は黙ってその前を通って行こうとする。すると彼は一歩前に出て、美鈴の前に立ち塞がった。

「待ってください」

「なんでしょう」

美鈴の口調はやはり丁寧だった。彼はそれをどこか不満足に感じたように悔しそうな顔をしたが、美鈴は立ち止まったまま、彼に言われたようにそこで待っていた。彼はやはり言いにくそうにしていたが、きっと顔を上げて美鈴を睨むほど強く見つめる。美鈴は少しうつむいた。

「僕、あなたを諦めるなんて、できません。せめて連絡先の交換だけでも…」

「困ります。それでは言いますが、私にはもう決まった相手がいますから。これ以上同じ話をするようでしたら、私も出るところに出ます」

美鈴が彼の話を遮った言葉は、ここで初めて険しく尖った口調になって、ぴしゃりと彼の頬を叩いた。彼は片手をちょっと美鈴に向かって上げた格好のまま、はっきりと美鈴から拒否されたことを知って、その場に呆然と立ち尽くしていた。美鈴は自分の言葉を終えた時に、もう校門へと歩き出していた。この件はこれで収まった。